「例の転校生は、吹奏楽部に入る予定だそうですね」
冷め切った薄い珈琲を啜りながら、大内保教諭は思い出したようにそう言った。丸みのある童顔が、朗らかで邪気のない微笑を乗せて背後の席に座す安藤と喜多に向けられる。だがそれを眼にした二人は、禁じられた呪句を耳にした宗教家よろしく、ぎくりと肩をそびやかした。
美燕が何の断りもなく練習に励む吹奏楽部の元へ乱入し、棚の上で埃をかぶっていた楽譜を引っ張り出して、一年生が放置していったフルートを弾き始めたのは昨日のことである。注意するのも忘れた喜多や呆気に取られる部員そっちのけで、高度な技量を問われるシシリエンヌを見事に弾きこなした美燕は、その容姿同様、場に居合わせた人々の耳を愛で、あっという間に虜にしてしまった。
「まったく、常軌を逸している」
「まぁまぁ、安藤先生もそう言わずに。蜂嶺なりに、入部の意志を伝えたかったんでしょうよ」
「ならばあんな回りくどいことをせずに、直接そう言えばいい。なんだってこう、こっちの理解を超えることばかりするんですかね」
暢気な大内のとりなしも、安藤の憂鬱を払拭することは出来なかったようだ。片手で頭を抱えた安藤が、ご迷惑をお掛けしてすみませんね喜多先生、と沈んだ調子で謝辞を述べる。思い出したくもない醜態を掘り返されて、恥じ入っているかのような響きであった。
「気になさらないで結構。素晴らしい演奏を聴けたんだ、こちらが感謝したいくらいですよ」
「はぁ……」
そう言われたとて、居心地の悪さは収まりそうにない。どれほど素晴らしい演奏だったのかなど、門外漢の安藤には知る由もなかったし、たとえどれほど賞賛に値するものだったとしても、彼女の常識に欠ける振る舞いを帳消しにするほどの力は無いように思われた。
「何にせよ、蜂嶺足穂の娘の面目躍如ってところですかね」
「――― ……誰ですか、それは」
「世界的な指揮者ですよ。もっとも、日本じゃあまり知られてないですが……恐らく蜂嶺の父親と考えていいでしょう」
「そういえば、前に安藤先生が、彼女の父親は音楽家だって言ってましたよね」
喜多の推測に、大内が便乗する。安藤だけが、胡乱な目で何事かを考えていた。蜂嶺足穂。そんな名前は、事前に渡されたデータの何処にも記載されていなかったはずだ。
それとも、自分の思い違いだろうか。小首を傾けながら、家庭調査書をまとめたファイルに手を伸ばす。生徒達の事情が書き込まれた紙を物色しているうちに、安藤の意識は自然と先日不良たちと騒ぎを起こして指導室送りになった美燕の姿へと導かれていった。
「―――
今回は多めに見るが、また同じような騒ぎを起こしたら親御さんを呼ぶからな、分かったか?!」
生活指導の戸隠が、口角の泡を飛ばしつつ美燕を睨みあげる。普通の生徒ならばその剣幕に怯え、身を縮ませてひたすら謝るか、不良なら逆ギレして食って掛かるかのどちらかだ。その反応によって、その生徒に貼るべきレッテルが決まる。
「……呼んで駆けつけるような親はいません。連絡するだけ無駄ですわ」
だが犯人を問い詰める刑事よろしく生徒を怒鳴りつけていた戸隠に向けられたのは、穏やかでありながら恐ろしく冷ややかな威嚇だった。美燕は人形じみた表情でしれっと言い放つと、と学士の顔を見るのも不快だと言うように視線を逸らす。なおも言い募ろうとした戸隠だったが、これ以上の脅しをかけるのは無意味と悟ったのか、忌々しげに少女から身を引いた。
かくも落ち着いた対応をされては、頭に血を上らせるほうが馬鹿馬鹿しくなってしまう。少なくともそう思わせるだけの貫禄じみたものが、その時の美燕には備わっていた。輝くばかりの端整な麗貌がしんと静まり返っているさまが、その頑なな態度をさらに強固にし、いっそぞっとするほどの緊張感を見るものに与えていた。
怒るでもなく萎縮するでもなく、ましてや泣き出すでもない。戸隠の追及をきっぱりと撥ね退け、それ以上の干渉を許さぬほどの領域を張ったのは、安藤が知る限り一人しかいなかった。不愉快なパーティに招かれた貴婦人のように、不機嫌に口唇をつぐんだ少女の姿に、仏頂面で腕を組んでいた男子学生の面影が重なる。一歩踏み込むのを躊躇うような、その時の殺気だった気配が背筋に甦った時。
「あ、」
ファイルの中に美燕の家庭報告書を発見した安藤は、思わず小さく叫んでしまった。それを聞きつけた喜多が、好機も露わに身を乗り出してくる。迂闊だった。内心で溜息をつきつつ、喜多の存在を頭の隅へと追いやって、そのデータにざっと眼を通す。
「……どうやら当てが外れたようですよ、喜多先生」
まったく同じタイミングで資料から眼を離した教師の片割れ……安藤が、やれやれと首を振った。
「蜂嶺の母親が、音楽家だったんですね。父親は外国籍のようですが……。蜂嶺足穂なんて名前は、何処にも出ていない」
同僚の勘違いを指摘したところで、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。安藤は逃げるようにファイルを閉じると、未だ腑に落ちない様子の喜多に暇を告げ、午後一番の授業へと向かっていった。
とっぷりと日が暮れた放課後の校舎に、忙しない足音が木霊する。
人気のない廊下を駆けてゆく人影は、過ぎ去ってゆく教室の時計にちらりと目を走らせ、さらに足を速めた。約束の時間を、もう五分も上回っている。
『さっき佑がラプンツェルの割引券くれたんだぁ!( ・∀・)つ 期限今日までだから、帰り亜美沙姐さんと一緒に寄ってかなぃ(^_^)? 校門で待ってるね〜!!』
先刻瑛莉がこんなメールを寄越されなければ、こんなに急ぐ必要もなかっただろう。直前に誘ってきた友人を恨むべきか、期限ぎりぎりになって割引券を与えたその幼馴染みを呪うべきかと考えながら、来々が昇降口に滑り込んだとき、下駄箱の隅で人影が揺らいだ。
「あっ……」
お茶会に招かれた三月うさぎさながらに急いでいた来々の両足が、ぴたりと急停止する。下駄箱の蓋を閉めたばかりの人影が、そんな来々に視線を向けた。夜の帳が落ちかけた夕暮れ。落日の輝きを反射する色素の薄い髪とほっそりとした体は、間違いなくあの転校生のものだ。
「……こっ、こんばんは」
逆光の中、そこだけ光を灯したように明るい瞳に見つめられて、来々は上ずった声をあげた。馬鹿、なによそよそしいことを言っているんだ。クラスメイトぢゃないか。何もこんなに、他人行儀にする必要などない。
とはいえ美燕と対等な口を利けというのは、人見知りのきらいにある来々には些か酷だったろう。見たこともないほど華やかで美しい少女。気が強く聡明な、孤高の少女。誰も知らない秘密を匂わせる少女。ある種の威厳すら湛えた彼女は、来々にはあまりにも遠すぎて、気後れしてしまう。
そうやって彼女を敬遠してしまうのは、なにも来々ばかりではなかった。一昨日から吹奏楽部に正式に入部した彼女は、県内でも有数の強豪と名高い洗ヶ崎南中の、運動部さながらの過酷な練習を難なくクリアし、部員達の驚嘆を買った。滅多に人を褒めないことで有名な喜多も、美燕の腕前には一目置いているようだ。今では来月開催されるアンサンブルコンテストの出場メンバーになるのではという噂が立つほど、彼女のフルートの才能は卓越していた。
だがその完璧さが、かえって周りの人間を遠ざけ手いるのも事実だ。たぐいまれな美貌に反し、学校一の不良を蹴散らす凶暴な一面を見せながら、一方で優秀なフルート奏者としての才能も知らしめる。そのマルチな完全性は他者の関心を買うものになりこそすれ、親近感に変わることはない。
教室での美燕は未だに一人だったし、部活でも彼女とともに行動しようとする人間は現れなかった。
無論、来々としてもそんな彼女の学校生活を気にかけないでもなかったが、それよりむしろ彼女の正体……保健室前で耳にした佑の言葉とネットでの情報が気にかかって仕方がなかった。下手に声を掛けたりすれば、自分の疑惑がばれてしまうのではないか。そんな想いが、生来の引っ込み思案に拍車をかけ、美燕を更に遠い存在にしてしまう。
「こんばんは」
だが来々の困惑は、美燕の穏やかな微笑によってあっけなく打ち砕かれてしまった。
「随分遅いのね。オーボエのパートって、こんなに長い時間練習するの?」
「えっ、いや、その……」
不意に訪ねられたこともさることながら、自分の顔とパートを既に覚えられていたことにも動転した。百人近い部員を抱える吹奏楽部で、自分の存在を認められていた。その事実が、来々の心を甘くくすぐってゆく。
「音楽室の片付けとか、戸締りとか、してたの。今週当番だから」
「ふぅん。そんなのがあるんだ。お疲れ様」
「あっ、ありがとう」
しどろもどろな来々をさほど不審に思いもせず、美燕は親しげに相槌を打ってくる。そして硬直したままの来々に、くすっと笑いかけると、
「そんなに身構えないで。この前みたいに、暴れたりしないから」
「えっ……ああ、」
そう言われても、何と答えればいいのか分からない。途方に暮れたままちらりと美燕を盗み見る。悪戯っぽい微笑を浮かべた幼い美貌が、夕焼けのオレンジの中にうっすらと浮かんでいた。
「あっ、来々! こんなとこにいた!!」
不意に昇降口から瑛莉の声が響いて、呼ばれた少女は文字通り飛び上がった。どうやら待ちぼうけを食らった瑛莉が、わざわざ迎えに来たものらしい。後ろには亜美沙の姿も見える。
「もーっ!早くしないとお店閉まっちゃうよ?!ガトーショコラも杏のシブーストも紫いものモンブランも生キャラメルのシュークリームも品切れになっちゃうよ?! 来々が食べたいってゆってた、新作のベリーチーズタルトも無くなってるかもだよ?!」
「ごっ、ごめん」
待ちくたびれた不安を吐き出すように姦しく言い立てられて、来々は萎縮した。
「謝るのはあと! 早く靴履いて、行こ! あのへん変質者が出やすいもの、暗くなったら大変でしょ」
瑛莉に急き立てられ、止まっていた来々の忙しい時間が動き出す。慌しく靴を履き、瑛莉の方へ向かう直前、立ち止まったままの美燕とすれ違った。
咲き乱れる花の甘い香が、柔らかな髪とともにふわりと靡く。
「……じゃあ、またね」
かすかに聞こえた別れの言葉に来々が振り向く頃には、美燕の姿は校舎のほうへ向かっていた。
「……どしたの、来々?」
「……うん。蜂峰さん、帰らないのかなぁって」
「忘れ物でもしたんでしょ。ほら、もう行こう。亜美沙も待ってるよ」
友人に促され歩き出しても、来々の疑問は晴れることはない。そういえば、さよならを言い忘れていた。せっかく、美燕が声を掛けてくれたのに。
街灯の瞬きだした道に、来々たちの影が長く伸びる。肩を並べて帰路につく彼女達が、先刻まで美燕の立っていた下駄箱の前に黒い染みが飛び散っていたことなど、気付く余地もなかった。