開け放した窓から、生温い風がじっとりとまとわりついてくる。
熱帯気団がお届けする暑さと湿気の抜け切らない潮風は、夏の残滓だ。夏休みが終わっても、夏が過ぎ去ったわけじゃない。
蒸し風呂差ながらの熱っぽい空気に、騒がしく話し合う教室のざわめきが遠ざかる。ぎらぎら照りつける太陽に恐れをなしたか、蒼く突き抜けた空には雲ひとつ浮かんでいなかった。榊 来々 は幾分恨めしげに、その空を仰ぎ見る。
殆ど惰性で団扇がわりの下敷きで風を送っても、暑さは一向に減らなかった。けれど今吹き込んだやる気のない風に比べれば数段マシと言うものだ。少なくとも、体感温度を下げる役には立っている。
こう云う日は心底憂鬱だった。脳みそが熱湯でぐつぐつ茹で上げられているみたいで、何の思考も紡いでくれない。この具合だと、委員会の話し合いにけりがつく頃には、頭がほどよくアルデンテになっているだろう。けれど今、来々の胸に影を落としているのは、何もこの陽気の所為ばかりではなかった。
―――― お前……男?!
一昨日目撃した美燕 と佑 のやりとりが、まだ耳の奥で疼いている。
蜂嶺 足穂 のひとり息子。オーストリア人の美貌の妻。佑の言葉。
あらゆる符号が動かぬ証拠となって、あの転校生の正体を暴いている。
それが真実だとしたら、何故?
何故美燕は少女の格好をしているのか、どうしてこの学校に来たのか、そもそも本当に蜂嶺氏と縁のある人間なのか。もしかしたら来々や佑の勘違いで、彼女は正真正銘の女なのではないか。
アホらしい、と笑い飛ばしてなかったことに出来たらどんなに気が楽だろう。いったいどこの誰が、あんなにも美しい娘を少年だと信じられるだろうか。もしもこの事実を口にしてしまえば、来々の神経の方が疑われるに決まっている。暑さの所為で、頭が可笑しくなったのだと思われる。最悪あの転校生を、傷つけることにだってなりかねない。
抱え込んだ秘密の重さに耐えかねて、来々は机に突っ伏した。途切れることのない潮騒の子守歌に、重厚な金管の音色や木管の澄んだソプラノが重なる。吹奏楽部の練習は、とうの昔に始まっていた。校舎に満ちた柔らかな旋律が、思考に飽いた来々の耳朶を優しく撫でてゆく――――
「……き、榊ッ!」
仲間達が奏でる心地よい響きを手繰り寄せていた来々の意識を、無遠慮な怒鳴り声が叩き起こした。慌てて居住まいを正して正面に向き直る。その拍子に、教壇で仁王立ちする体育委員の責任者と眼が合った。
「何をぼけっとしているっ?!」
「う……。え、えーと……」
まさか美少女転校生の性別について考えていました、などと正直に告白する必要もないだろう。余計混乱すること請け合いだ。
「いつまでも休み気分でいられては困る。体育祭は今月末だぞ、分かっているのか?!」
「……はい、」
「まったく、これだから文化部は……」
「すみません……」
何も謝る義理も道理もないのだが、見るからに体育会系の三年男子に詰られては、謝罪の一つも言いたくなるというものだ。別に好きで此処にいるんじゃない、深く項垂れた来々は胸の中で一人ごちる。ただ、じゃんけんに負けたんだ。でなければ自分のような生徒が、体育祭の実行委員に名乗りを上げたりするものか。
「しっかりしろよ、榊。今年の体育祭はお前にかかっているんだ」
「……は?」
突拍子もないことを言われて、来々の眼が点になる。この人は一体何の冗談を言い出すんだろう。それとも自分が、悪い夢でも見ているのか?
「は?じゃないだろう榊。お前は赤組女子の表現演目の担当責任者なんだからな。少しはしゃきっとしろ」
「……はぁ……」
委員長の言っている意味を、よく理解もせずに来々が頷く。そして点になったままの瞳が、黒板に書かれた自分の名前を見出したとき、来々は漸く事態の深刻さに気づいた。
「……!!ちょっ……せんぱ……ええ?!」
飛び出した声が悉く意味不明の音声と化したのも、無理からぬことだろう。赤組女子 表現演目担当者 二年三組 榊 来々。夢でも冗談でも白昼夢でもない。自分の名前が、紛れもなくそこに腰を下ろしている。
「先輩! なんでわたしがこの係に……?!」
「引き受けたい奴がいなかったんだ。仕方がないからアミダくじにしたらお前に決まった」
なんのひねりもない、無責任極まりない担当者の決定法に、来々は全身の血が音を立てて抜け落ちてゆくのを感じていた。
表現演目とは、平たく言えば創作ダンスだ。紅白の男子と女子に別れ、その演技を華々しく披露する。体育祭の花形とも言える競技であり、祭りを盛り上げるために欠かせない一大イベントであった。
そしてその種目の担当者を振り当てられた委員は、責任を持ってダンスの指導に当たらねばならない。演技の内容から振り付け、曲目、衣装まで企画し、生徒達の模範として指導を行うという、大変名誉あるポストなのである。
だがこの場合、女子生徒の注目の的となる『責任者』の役目は名誉どころか、弾道ミサイルですら裸足で逃げ出すほどの厄介ごと以外の何者でもなかった。
「……今日の集まりはここまで。次回までには各自企画書をまとめておくように」
しかしそんな気持ちなどお構い無しに、委員長が早々と話し合いを切り上げる。まわってきた種目別の企画プリントに眼を落とした来々は、絶望的な気分で硬直していたのだった。
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委員会も終わり、ショックがやっと抜けきった頃、来々はのろのろと立ち上がって床に置いた鞄を手に取った。余命一ヶ月を告知されても、ここまで落ち込みはしないだろうというほどの足取りで、そのまま教室を後にする。
一体わたしにどうしろと言うのだ。ダンスはおろか、アイドルの物真似や盆踊りの類ですら経験したことのない来々である。そもそも人前に立つのは大の苦手なのだ。赤組の女子全員に、ダンスを伝授するなどという離れ業は、世界がひっくりかえったって出来そうにない。
どんな神様の思し召しか知らないが、来々はこんな大役を自分に押し付けた巡りあわせを呪った。運命の悪戯と言うやつも、大変な失態を犯してくれたものだ。もしかしたらアミダの神様も、この暑さにやられてまともな判断が出来なかったに相違ない……。
そんな恨み言をつらつら並べていた頃、ふと潮騒の音がやんだ。
この街を覆いつくす波のざわめき。ひっきりなしに押し寄せる波の声は、空気よりも身近にこの街を支配している。幼い頃から慣れ親しんだその音が途切れることなど、滅多にない現象だった。魂が抜け落ちるようにふっと遠ざかった潮騒と、舞い降りた静寂が、とてつもなく不安なものとなって来々にのしかかる。
やがて間を置かずに、砂浜へ打ち寄せる水の響きが戻ってくる。だが直後、穏やかなさざめきに合わせて、優雅な旋律がゆっくりと聞こえてきた。
淑やかでありながら、物哀しげな侘しさを滲ませたフルートの調べ。夢見るように舞い踊る音色が、真夜中に囁く妖精めいた軽やかさを感じさせる。一方で、月夜の晩に人知れず涙する乙女のような幽愁を奏でる曲調には聴き覚えがあった。
ガブリエル・フォーレの『シシリエンヌ』。スタンダードとは呼べないそのタイトルが閃いたのは、この曲が昨年のアンサンブルコンテストで惨敗を喫したものだからだ。
先輩達が挑戦し関東大会出場の野望とともに砕け散った時の演奏は、聴くに堪えないという意味で実に印象深かった。フルートは風邪をこじらせた肺炎患者みたいに掠れていたし、ピアノとのコンビもたどたどしく、息の合わないコントを見ているような決まり悪さがあった。
けれども今耳にしている『シシリエンヌ』はどうだろう。移りゆく音の動きはなめらかで、強弱のつけ方も淀みがない。音量も安定していた。同じ曲とは思えぬほどの弾きっぷりだ。
だが一体誰がこれを奏でているのだろう。フルート奏者の榎坂 宵華 もかなりの技量を持っているが、此処まで完璧に弾きこなせるかは疑問である。第一くせが違う。宵華 はの弾き方はどちらかと言えば大らかで、理知的だ。こんなふうに、哀しみのあまり今にも壊れそうな、危うい旋律をつくったりはしない。
鞄を抱えなおした来々は、そのメロディに引き寄せられるまま、音楽室へと駆けていった。曲が終盤に差し掛かる。寂寥をいっぱいに孕んだ典雅な音色が、終わりに向けてゆっくりと歩み寄ってゆく。虚しさに満ちた夏の終わりを、広げた腕に抱きとめるように。
やっと足を踏み入れた音楽室には、人だかりが出来ていた。夏服の人だかりの向こうで、喜多 が眼を瞠 っている。人山を掻き分け、フルート奏者を確かめようとするだけでも、小柄な来々は随分骨を折った。それでも苦労の末、やっと最後の人垣を潜り抜けた来々の眼に、フルートを傾ける一人の少女が飛び込んできた。
風を孕んだカーテンが、貴婦人のドレスのように艶やかに翻る。少女の青みがかった瞳がけだるげに伏せられ、石膏めいた白い指がためらいがちに動いて、最後の一小節を紡いでゆく。
やがて最後の音を鳴らした銀の横笛がきらりと輝き、儚げな響きとともに聴衆の眼差しを射抜いた。愁いを帯びたその余韻は、一際高らかに打ち寄せた潮騒と絡み合って、遠く海の彼方へと消えていったのだった。