「はい。午前中はひとまず、ここまでっ!」
木管パートの責任者が、十二時を少し回った時計をちらと見遣ったあとそう告げた。教室の空気が、合奏の余韻を残してぴんと張りつめたものから、ほっと間延びしたものへと取って代わる。来々は辛うじてしくじらなかったことに胸を撫で下ろしながら、机に広げた楽譜をいそいそと片付け始めた。
県内でも有数の強豪として名を馳せる洗ヶ崎南中の吹奏楽部に、休みはない。日曜日でも朝から晩まで学校に閉じこもり、こうして練習を重ねるのが常だった。
八〇人近くの部員を有する楽部では、生徒のいない各教室でパートごとに分かれてそれぞれの練習を行うものが殆どだ。トランペットやフルートといった多くの演者を抱える場合は、楽器ごとに練習所が振り分けられるものの、来々のような少人数の楽器は譜面が同じもの同士が集まり、こうして音合わせをするのが基本だった。
「宮島さんは全体的にテンポが早くて忙しい印象だから、もう少しゆっくり弾くよう心がけて。岡島君はここの二小節の高い音が弱々しくなって不安定になるから、息継ぎを工夫した方がいいかも。あと……」
クラリネットを手入れしながら、パート責任者がてきぱきと指示を出す。同じ年なのに、しっかりしてるよなぁと感嘆しながら、来々が神妙な顔で聞き流していた時。
「榊さんは、展開部が終わった後の音が、ちょっとまだ甘いかも。音量が足りてないわ」
「えっ……」
出し抜けに名を呼ばれ、来々はしどろもどろに頷いた。気をつけます、と俯きがちに返したオーボエ奏者に、責任者の少女はしかし、明るい声で応じる。
「やだ、貶してるんじゃないよ。榊さん、演奏そのものはばっちりだしね。ただ発表会のホールだと、今の演奏じゃ他の音に埋もれちゃうって言ってるの。一人しか奏者がいないからさ、もっと自己主張した方がいいよ」
そんなことを言われても……と言う言葉を飲み込み、「うん」と素直に頷いてみせる。自己主張。それが出来る性分ならば、こんな風にみっともなく下を向かずに済むだろうに。
「……ありがと。今度から、気をつけてみる……ね」
「うん。一緒にアンコン出るんだもん、お互い頑張ろう!」
見るものを安心させる笑みを向けられ、来々は少し気持ちが軽くなった。
そう。アンサンブルコンテストはすぐそこまで来ている。来々自身初めての、コンテストへの参戦。それを思うと足が竦んでしまう気持ちもあるけれど、せめてみんなの足を引っ張らないようにしなければ。
心持ち明るさを取り戻した顔で、来々は二年三組へと急いだ。今日は昼食を挟んで、午後からは体育祭に向けての合奏練習がある。それまでの休みの間、瑛莉と食事を摂る約束をしていたのだった。
「瑛莉! ごめん、待った?」
教室には既に、楽部のメンバーが何人か集っていた。その中には美燕も混じっていた。いつものように、携帯電話を弄ったままぽつんと席に着いている。相変わらず美しく、どこかうら寂しい背中を気にかけながら、来々はちゃっかり日当たりのいい席を陣取って、お弁当をスタンバイしたまま大人しく座っている瑛莉と元へと歩いてゆく。
珍しく文句も言わず騒ぎもせずに頬杖をつく瑛莉の手には、インクの薫りも新しい漫画がちょこんと載っていた。
「……ああ、来々」
来々が向かいの席に鞄と楽器ケースを置いた音で、瑛莉は漸く顔を上げる。
「ごめんね。練習長引いちゃって」
「いいよ、別に。うちのパートは不真面目だからね。今日だって三〇分早く練習切り上げたし」
再び漫画の世界に滑り込みつつ、瑛莉は不機嫌に言い捨てた。
瑛莉の担当は打楽器。リズムを司る彼らのパートメンバーはしかし、その単調な譜面のためか練習をおざなりにする輩が多い。瑛莉もまたそうした風潮に迎合しているわけだが、彼女自身の熱意が薄いわけではなかった。それは不満げに口を尖らせていることからも、ありありと窺える。
いい加減で気まぐれな空気を振りまく友人の、不服の裏に隠された熱心さを垣間見た来々は、思わず苦笑いを洩らす。
「あっ、笑ったな。今あたしのこと、いい加減な奴、とか思ったでしょ?」
「思わないよ。その逆」
めざとく苦笑を咎めた瑛莉を宥めるように、来々が緩く首を振る。
「それより、ご飯食べよう。もう休み時間、あんまり無いし。ほら、漫画しまいなよ」
律儀に自分を待って、お弁当に手をつけずにいた瑛莉を来々が促す。
だが当の本人は待って、今いいところ……などと言いながら、中々本を閉じる気配を見せない。
「……もう。何読んでるの?」
「廃部寸前のチアリーディング部が、大会出場とサッカー部応援のために頑張るんだけどね」
「ふんふん」
スポコンものか、と心の中で来々が下した漫画への評価は、瑛莉が続けた突拍子も無い展開によって見事に覆された。
「実は廃部に陥れたのが謎の地下組織で、主人公の女の子達は彼らの陰謀を阻止するためにチアで悪人達と戦うの!」
「はぁ?!」
後から思い返しても、自分の返事は至極まともだったと来々は思う。しかしそんな来々の困惑と呆れなど気にもせず、
「いやー、井伏さんが読んでるの面白そうだったから借りてみたんだけどさ。なんか嵌まっちゃってー。とにかく戦闘シーンが迫力あって面白いんだよー。ポンポンで敵をぼっこぼこにするカナタちゃんもいいけど、なんつってもバトンで敵を斬り捨てる詩音ちゃんがね! すごいカッコいい!」
本のカバーを捲り、表紙を飾る少女……紫の髪を優雅になびかせバトンを構える(そもそもバトンって構えるものか?)シャープな印象の美少女を指差し、瑛莉が力説を重ねる。
「でも一番は相模さんかな! この人悪の組織の重鎮なんだけどさ、物静かで知的でスマートで、でもクール色っぽくてで……とにかくすっっげぇイケメンなのよ! そんで主人公のカナタちゃんに言い寄るんだけどさ。カナタちゃんはサッカー部の先輩に夢中だから全然なびかないわけ」
手塚瑛莉は決してオタクではない。美少女フィギュアを集める趣味も無ければ、アニメにのめりこんでキャラ萌えが過ぎた挙句関連商品やDVDを買い漁る精神も持ち合わせていない。ただ少しばかり、「面白い」と思う範囲が広すぎるだけだ。だがこの場合、その熱意は来々がドン引きのあまり顔を引き攣らせる作用を生み出しこそすれ、作品の良さを伝えるほどの力は持っていなかったようである。
「相模さんも、何でカナタちゃんを選ぶかなー。確かに可愛いけどさ、彼のことを本当は心から愛してる詩音ちゃんの方が全然魅力的なのに。詩音ちゃんもね、素直じゃないからね、敵同士だし。でも……」
「わ、わかったから。すごく面白い話ってのは、分かったから」
放っておけば休み時間が延々この話で潰されるかもしれない。その危険を察知した来々は、珍しく積極的に会話の路線変更を試みた。
「そう? 来々も気になったら井伏さんに聞いてみれば? あー! でもあたしもチアやってみたーい!! ミニスカ穿いて踊ってカッコいい先輩と恋に落ちたりとかしてみたーい!!」
最後の項目はチア関係ないんじゃないか。駄々を捏ねるように椅子をがたがた言わせる瑛莉を、半ば疲れた気分で見遣りつつ、来々は鞄からお弁当を取り出した。
「……あっ」
その拍子に、青い紙がひらりと床に舞い落ちる。あれ、これなんだっけ……来々が訝しげに首を捻るころには、瑛莉が素早くその紙を拾い上げている。
「……体育祭……企画書。表現演目?」
瑛莉がご丁寧に、文面を読み上げる。その音声を受け取った来々の顔色が変わるまで、さして時間はかからなかった。
「……ああ――――っっ!!」
来々、何これ? と問いかける瑛莉の声が来々の悲鳴に掻き消される。その地球の終わりがやってきたかのごとき絶叫に、クラスにいた生徒達が一斉にこちらを振り返った。
「……来々?! ちょっ、落ち着きなって!!」
瑛莉にどつかれ、心肺停止・思考凍結寸前まで追い込まれた来々の意識が現実に引き寄せられる。同時にクラスの視線を総なめにしているのに気づいた来々は、羞恥のあまり両手で顔を覆った。
「……ご、ごめん」
「あー。だ、そうです皆さん。何でも無いです、お騒がせしました」
真っ赤になって声も出ない来々に代わって、瑛莉がフォローにまわった。クラスの面々は納得したように、それでも奇人に向けるような目をしながら、来々から視線を外す。美燕もまた不審げにこちらを振り返ったが、それ以上の反応は示さなかった。
出来ることならこの場から逃げ出したい……いっそのことこの企画書も放り出して、見知らぬ日本のどこかで自分を待っている人を探しに出掛けたいくらいだった。美燕のちょっと不快そうな目つきに、たとえようもない罪悪感を背負った気になる。来々は爽やかなブルーの紙切れを、あたかも戦争召集を命じる赤紙のような気分で瑛莉から受け取った。
「そういえば来々、体育祭実行委員だったね。何、表現演目の担当になっちゃったの?」
「……うん」
沈痛な一声が、雫のように垂れ落ちる。瑛莉は心底気の毒そうな表情で、来々の肩を叩いた。
「まぁ、そう落ち込まないでよ。これ、何時が提出期限?」
「明日……」
「えっ? 何にも書いてないじゃん。どうするの、来々」
「……どうしよう」
震える自分の声が恐ろしく惨めで、自らの心にぐさりと棘を刺す。どうしよう。問いかけたって、答えは出ない。瑛莉に相談したところで、自分が役不足であることまでは解消できない。自分の情けなさにほとほと嫌気がさし、いっそのこと死んでお詫びをするべきかと危険な方向に思考が傾いたときだった。
「ああっ!」
今度は瑛莉が素っ頓狂な声でクラスを驚かせる番だった。もっとも、彼女の場合はそんなこと日常茶飯事で、誰も気にも留めはしなかったが。
「来々っ! なんでもっと早く言ってくれなかったの?!」
「……え?」
「これよ! この表現演目! まさにうってつけだわ、そう思わない?」
「……何の話?」
どうも会話がかみ合わない。まるで異星人と交信しているかのように来々が友人を見上げるのと、瑛莉が高らかに宣言するのが同時だった。
「チアよっ! 今年は愛と青春と闘魂のチアリーディング、やるわよっ!」
「はぃい?!」
拳を握り固め、勇ましく胸を張った瑛莉に対し、来々は眼を点にするのが精一杯だった。しかもやるわよって……決定事項なのか?
「でもわたし踊ったことなんてないし……ち、チアなんか」
「そんなの、あたしだってないよ」
けろっと答えられ、来々は反論する気力すら失った。先刻まで渦巻いていた絶望感や戸惑いとともに、気力まで一気に抜け落ちてしまった来々など気にもせず、瑛莉が企画書になにやら書き込んでいる。
「って、瑛莉! 何勝手に書いてるの?!」
ちょっと眼を離した隙に、青い紙切れのてっぺんには『愛と青春とバトルのチアリーディング』の文字が存在を主張していた。さらにその下には、概要と目的まで記入されているではないか!
「やめて! すぐに消してっ」
「無理だよー。ボールペンで書いちゃったもん」
「よりによって!! せめてバトルだけでも修正液で訂正してよ」
「何で?! ここが重要なんじゃん! 悪の組織と戦う可憐な乙女たちの乱舞! それが見所なんじゃん! 醍醐味じゃん!」
「悪の組織なんてどこにいるのよー!!」
ぎゃあぎゃあと喚きあう間に、瑛莉が企画書を書き上げてしまった。ほうほうの体でそれを強奪した来々は、絵文字やら顔文字やらが飛び交う不謹慎かつ適当極まりない企画書に、呆然と眼を通す。
「……概要……可憐な乙女による正義のチアリーディング……今の時代可愛いだけじゃ物足りない、かっこいい女の子の本気を見よ……。狙い……悪の組織を倒し世界平和を取り戻す……」
「どう? なかなか斬新っしょ?」
斬新過ぎて言葉もない。大体何故体育祭の演目ごときで世界平和を提唱しなければならんのだ。それで地球が救えるならば、温暖化対策も核撲滅も政治家の汚職報道も必要ないではないか。
「あっ、練習始まったらあたしに教えてね。振り付けとかやらなきゃならないんでしょ、こういうの」
「……瑛莉、やってくれるの?!」
どうしたらこのふざけた提案を無かったことにするべきか考えていた来々が、がばっと顔を上げた。さも当然といわんばかりに、瑛莉が眼を見開く。
「決まってんでしょ。他に誰が居るの? まぁ、悪の組織と戦う方法を知ってるプロが居るっていうなら話は別だけど」
本気とも冗談ともつかない台詞すら、今の来々にはありがたかった。例の漫画を取り出しながら、ダンスに使えそうな振り付けを探し始めた瑛莉が、一筋の光明のように神々しい。
とにかく、自分一人でダンスの振り付け指導をしなければならない事態は回避できた。救いの手を差し伸べた瑛莉だ、この際企画書の内容が多少現実離れしていても、多めに見るとしよう。これを提出して顰蹙を買ういっときの恥くらい、偲んで見せよう。
「あっ、そうだ」
黙々と漫画と向かい合い、ああでもないこうでもないと唸っていた瑛莉が、また何かを閃いたらしい。と思うや否や、さっさと立ち上がるとそのまま美燕の席まで歩いてゆく。
「蜂嶺さん♪ ちょっといいかな?」
「……どうしたの?」
瑛莉に話しかけられてもさしたる動揺も見せずに、美燕が携帯を覗いたまま応じる。
「もうすぐ体育祭があって、女子はダンスやらないとならないんだけどさ。蜂峰さん、うちらと一緒に振り付けやんない?」
「振り付け?」
「そ。ダンスの責任者になった生徒は、振り付け決めて、女子生徒にそれを教えないとなんないの。あたしと来々だけじゃ、手が回らないから」
「ええっ?! わたしも、指導するのっ?!」
瑛莉の発言に眼を剥いたのは、来々の方だった。
「なに寝言言ってんのよ。責任者は来々でしょ?」
でもわたしダンスなんてやったことないし、人前に出るの苦手だし、迷惑かけるかもよ……抗議と泣き言を同時に繰り出す友人の弱音をさらりと流して、瑛莉が美燕に畳み掛ける。
「あの通り、体育祭実行委員がものすごぉく内気で弱気だからさ。一緒にサポートして欲しいんだ」
「なんであたしなの?」
「そりゃあ勿論、学校一の美少女だから!」
何の理由にもならない答えのあとに、さらに追い討ちをかけるような誘い文句。
「ミニスカ穿いて踊ったら、すっっごく可愛いだろうなぁって思ったの!絶対蜂嶺さん、似合うと思うよ。めちゃくちゃカッコいいと思うよ」
普通だったら怒りに達しても何ら不思議ではなかった。これで美燕の機嫌を損ねた、もう一生口を聞いてもらえないかもしれない、そんな不安に埋め尽くされた来々の耳に、信じられない言葉が飛び込む。
「……衣装、あるの?」
どうやら瑛莉の勧誘は功を奏したらしい。やっと携帯電話から注意を逸らした美燕の眼は、ほんの少しの期待に輝いていた。
「うん! これから作る」
無責任ともとれる瑛莉の肯定に、美燕は考え込む素振りを見せる。しかしその心は既に決まっていたのだろう。美燕は快く、瑛莉の申し出を受け入れたのだった。
「いいわ。やってみる。えーと……」
「手塚瑛莉。瑛莉でいいよ」
「瑛莉。よろしくね」
嬉々とした心情を悟られまいと、綻んだ口許を必至に引き締めながら了承の言葉を述べる美燕を、来々は夢の中に居るような気分で見つめ返していたのだった。