あの化け物屋敷に超絶美少女の転校生がやってきた。
 その噂が学校中を駆け巡ったのも早かったが、昨夜彼女を口説きにかかった冬崎が高校生と乱闘事件を起こして危うくお縄になりかけた、というスキャンダルが伝播するのも早かった。それもどうやら、例の転校生が絡んでいるらしい。朝練を終えた亜美沙が教室へ戻る頃には、大方の人間がそれを知っていた。
 これには亜美沙あみさも閉口した。狭い街では些細なこと(とは言えないが)でも、即座に筒抜けに暴かれてしまう。田舎の噂の感染力とは恐ろしいものだ。下手な病原菌などより、よっぽど繁殖力があるに違いない。
「すっかり注目の的だねぇ、蜂嶺蜂嶺さん」
 給食を終え、瑛莉えいりと雑談を交わすころになっても、色めき立った学校の空気は消えなかった。
「本人は至って冷静だけど、ね」
 こっそり持参したティーン雑誌のページを繰りながら、瑛莉は素っ気なく言い放つ。噂の中心にいる美燕びえんは、なにやら熱心に携帯電話を弄っていた。あちこちで噂になっているわりには、直接美燕にことの真相を問いただそうとする輩がいなかった所為もあろうが、あの落ち着きぶりはむしろ不自然なくらいである。
「あたし、ああいうコ苦手だなぁ」
「は?!」
 脈絡のない瑛莉の呟きに、亜美沙が素っ頓狂な声を上げた。人見知りは言うに及ばず、物怖じしないどころかへたをすれば誘拐犯だろうがテロリストだろうが即座に喋りかけるであろう瑛莉が、そんなことを言うなんて。何か善くないことが起きる予兆だろうか。明日登校したら学校がなくなっていたりとか。
 亜美沙は恐々と、友人の顔を覗き込んだ。
「ちょっと、何その眼。あたしなんか変なコト言ったっけ?」
「うん。瑛莉、大丈夫?頭でも打ったの?精密検査は受けた?」
「それ酷過ぎだしッ! 何て言うかさぁ、蜂嶺さんて隙がなくない? うっかり喋ったら、こっちが取り込まれちゃいそうって言うか……ペース崩されそう。そう言うの、やりにくいなぁって」
 一見身勝手なようでいて、その実相手の考えていることを瞬時に読み取り、自分のペースへ持ち込んでいくのが、瑛莉の才覚だった。彼女の存在が疎ましく思われないのは、その優れた嗅覚によるものである。そんな社交性を持ち合わせる瑛莉が言うのだ。その直感は何となく当たっているような気がした。
「あ、あれ」
 急に声をひそめた瑛莉の態度で、亜美沙は何が起きたかを悟った。いつの間にか、顔にあざや切り傷を拵え、絆創膏と包帯でその悲惨さを補強した冬崎が、取り巻きを従えて三組の教室に上がりこんだのである。
「昨日は世話になったなぁ、蜂嶺」
 どすの聞いた声で呼びかけた冬崎が、美燕から携帯電話を奪い取る。
 その間に、取り巻き達が彼女の席をぐるりと取り囲んだ。
「ちょっと話があンだ。ツラ貸してくんねぇか?」
「――― 人前じゃ出来ないお話なのかしら?」
 流れるように顔を上げた美燕が、おもむろに口を開く。
「ああ、出来ねぇな。分かったらさっさと立てよ」
 冬崎は強引に、美燕の細腕を掴んだ。引き摺られるようにして立ち上がった美燕は一歩前へ進むと、やんわりと冬崎の手を振り払う。
「せっかくだけど、今日は貴方のお誘いに乗る気分じゃないの。……ところで、それ返してくださる?」
「てめぇが付いて来たら、返してやってもいいぜ」
 下卑た笑みを浮かべると、冬崎は携帯を仲間の一人へ放り投げた。それを目線で追った瑛莉は、辟易したように溜息をつく。
「呆れた。子どもみたいなことするのね」
「何だとォ?!」
「悔しかったら、この場で言いなさいな。どうせ昨日と同じことなんでしょう? あたしと付き合いたいなら、そうはっきり言えばいいじゃない」
「そいつはちょっと違ぇな。……おめぇが、俺と付き合えって言ってんだよ」
 ねちっこく絡みつくように、冬崎が美燕を睨めつける。その視線を、汚いものでも見るかのように一瞥した美燕の肩へ、冬崎の腕が回された。
「大人しく俺の彼女になりゃ、悪いよーにゃしねぇ。俺だって女には手荒な真似したくねぇしよ。素直に言うこと聞いてりゃいいんだ。簡単だろうが?」
 耳元で囁く冬崎に、美燕が俯いた。
 いまや教室中が、彼らの動向を固唾を呑んで見守っている。
「……ない、」
「あン?」
「くだらない」
 息詰まる静寂の中、やけに低い少女の声が、その場にいた全員の鼓膜を貫いた。
「そんな風にしか女を口説けないなんて、最低だわ。貴方みたいな野蛮な下衆に、付き合うつもりはありません。貴方には、せいぜいメスのゴリラがお似合いよ」
 直後に紡がれた言葉は、家臣に命令を下す女王めいた威厳を感じさせるほど、凛としていた。その声に、聞き惚れてでもいたのだろうか。不思議そうに眼を瞬いた冬崎だったが、厳つい顔が見る見るうちに赤くなってゆく。
「てっ……テメェ……!!」
 怒りに身を震わせた冬崎が、唾を飛ばしながら激昂する。
「……あなた、手荒な真似はしないって言ったわよね?それは、嘘?」
 勝ち誇った笑みとともに、美燕は残酷な台詞を突きつける。だが冬崎にはそれすら届かなかった。冬崎は怒りが命じるままに、美燕の肩に回した腕で少女の胸ぐらを掴み上げると、そのまま床へ叩きつけようとする。
「――― へっ?」
 次の瞬間、驚きの叫びを漏らしたのは冬崎だけではなかった。
 床に放り投げられている筈の少女が、冬崎の腕を掴んであらぬほうへと捻り返している。唐突な痛みに声を上げるより早く、高々と上がった美燕の踵が、冬崎の顎を直撃していた。
「ぐぁっ」
「冬崎っ? っ……このアマぁ!!」
 顔を抑えて昏倒した冬崎の取り巻き・笹野が美燕に飛び掛ってきた。その攻撃をひらりとかわすと、美燕は折り曲げた膝を笹野の鳩尾に叩き込む。
「……っ、」
 なおも戦意を失わない笹野の首筋に、手刀をお見舞いする。直後、後ろから美燕を羽交い絞めにしようとした恩田へ、振り向きざま強烈な回し蹴りと肘鉄を食らわせた。
「うおおおおっ」
 その隙を突いて起き上がった笹野が、椅子を振り回しながら美燕に突進してきた。その瞳には、得体の知れないものへの恐怖が浮かんでいた。
「しつこいっ」
 闇雲に椅子をぶん回す笹野の間合いへ軽やかに飛び込んだ美燕は、爪先で敵の股間を蹴り上げた。それでも未だ足りないのか、悶絶する笹野のこめかみに、勢いよく振り上げた掌底を打ち下ろす。
「……まじ、すか……」
 鮮烈且つ一方的な暴力の限りを尽くす美燕に、投げられた携帯を受け取った取り巻き……岩永が震え上がった。
「ああ、いけない。忘れるとこだったわ」
 起き上がりかけた冬崎の顔を踏みにじり、止めを刺した美燕は岩永に向かってにっこりと微笑む。華やいだ、惚れ惚れとするような、うっかり見蕩みとれてしまうような笑みだった……こんな状況でなければ。
 美燕と眼が合った岩永は、引き攣った悲鳴を上げると、脱兎の勢いで教室を飛び出していった。途中、縺れる足で駆けてゆく彼にぶつかったらしい女生徒の叫びが、廊下の方で聞こえた。
 命からがら逃げ出した少年を、少女はその名の通り燕のように、身を翻して追いかけてゆく。
「おいっ、何の騒ぎだっ?!」
 やっと駆けつけてきた安藤の傍らを、美燕がすり抜けていった。それを眼で追った後、安藤は教室の惨劇を目撃して息を呑む。
「おいっ、蜂嶺っ?!」
 なにがしかの予感が、彼に知らせたのだろうか。胸騒ぎを感じた安藤が、わけもわからぬままに、少女の後を追う。
 やがて音楽室の前で美燕の姿を認めたとき、彼女は廊下に這いつくばった岩永の背に馬乗りになり、その腕を捻り上げながら、彼の手から携帯をもぎ取っている最中だった。