絶え間なく響く潮騒が、夜の闇に溶けてゆく。夏の気配をとどめた、むっとするような生温い風も、ゆるく頬を撫でて消えていった。
今宵の海は穏やかだ。海岸沿いに伸びる歩道を歩いていた佑の傍らを、先刻パトカーがけたたましく喚き散らしながら去っていった以外、その静寂を邪魔するものは何もない。
佑はほんの気まぐれに、砂浜へ続く階段を下りていった。散歩コースを急に変更された蘭丸が、抗議の声をあげる。
「うるさい、お蘭。さっさと歩けよ」
限りなく地面に近い位置に胴体を持つミニチュアダックスフンドの蘭丸にとって、砂浜は天敵だ。切なげな泣き声と共に佑を見上げるが、飼い主はその眼差しなど意に介さぬように、淡々と階段を下りてゆく。
砂浜に降り立つと、潮の匂いがいっそう濃くなった。蒸し暑い夜の空気と交じり合ったそれは、あたりの闇を更に濃密にしてゆく。
シーズンを終えた海の家は、とっくに店仕舞いをしていた。あれほど賑やかだった夏の景色も今は昔、九月の宵の海辺は閑散としている。砂浜に打ち捨てられた花火の残骸と空き瓶が、辛うじて過ぎ去った夏の盛りを物語っているだけだ。空に君臨する月だけが、その姿を見つめていた。
ゴーストタウンめいて静まり返った海の家のそばを、佑と愛犬が歩いていく。歩くたびにガラス片や、ビールの空き缶などに足をとられる蘭丸が、困ったと言う風に鳴き喚く。砂浜のそここに仕掛けられたごみの罠に、思いのほか苦戦しているようだ。
仕方なく佑が抱き上げて歩こうとした時、沿道を走る車のテールランプが海岸に強い光を投げかけた。砂浜に、まるで海が割れたかのような光の道がさっと現れる。その指し示す方向に向かって、突然蘭丸が駆け出した。
「おい、お蘭ッ?!」
先刻の弱々しい姿が嘘のようだった。でこぼこの砂の上をものともせずに、蘭丸が猛然とダッシュする。海辺を歩く、一つの人影に向かって。
打ち寄せる波に素足を浸し、指の先に靴をぶら下げた両腕を広げながら、平均台の上を歩くような危なっかしい足取りで、その影は進んでゆく。海と陸の境から、足を踏み外さないように。
不思議なことに、青白い月光に浮かび上がった姿が誰なのか、佑は顔を見なくても分かっていた。目に見えるものではない、何か空気のようなもので、その人物の存在を感じ取っていたのだ。
わんっ
水際に駆け寄った蘭丸が一声吼える。
水が恐いのだろう、波打ち際で足踏みする愛犬を、佑が抱き上げた。
「―――
こんばんは」
蘭丸の声に振り返った人影が、無邪気に笑いかけてくる。紛れもなく、朝ベランダから見かけた少女……転校生の、蜂嶺美燕だった。
「そのワンちゃん、貴方の?」
「わんっ」
佑のかわりに、蘭丸が元気よく答えた。佑の腕から逃れようと、じたばた足掻きながら。
「可愛いわね……触ってもいい?」
佑が許可するよりも先に、美燕の手は蘭丸の頭の上に伸びていた。すんなりとした白い指が、茶色い毛並みを慈しむように滑ってゆく。
「この子、名前は?」
「蘭丸。―――メスだけど」
ようやく口を利いた佑の言葉に、美燕がふきだした。笑いながら、そっかぁ、女の子なんだぁと、甘えた声で蘭丸に呼びかける。蘭丸は蘭丸で、美燕の指先をしきりと舐めていた。こんな風に蘭丸が女に懐くのは、極めて珍しい。見知らぬ女には、噛み付いたって不思議ではないのに。
「――――
あんた、こんなとこで何してんの?」
蘭丸を撫でていた美燕の手が、ぴたりと止まった。撫でられて機嫌を良くしていた蘭丸が、不思議そうに首を傾ける。
「確か、冬崎たちと遊んでるんじゃなかったっけ」
「……よくご存知なのね、そんなことまで」
興が削がれたように、美燕はくるりと踵を返した。そのままざぷざぷと、剥き出しの足で海を蹴散らしてゆく。
「付き合うの、あいつと」
「さぁ、どうかしらね」
「はじめっから、そんなつもりねぇんだろ」
「そうでもないかもよ。大体、貴方には何の関係もないじゃない」
どこか拗ねた口調で言った後、美燕は軽やかに振り返った。その瞳には、試すような輝きが宿っている。
「それとも、貴方もあたしと付き合いたい?」
「―――
自意識過剰も大概にしろよ。そーいうんじゃねぇよ」
「やぁね。断わるにしても、もっと気の聞いた口利きなさいよ。そうすっぱり言われたら、いくら冗談でも傷つくわぁ」
憤慨したように、美燕が口唇を尖らせる。蘭丸も尻尾を振りながら、その台詞に同調した。どうも調子の狂う女だ。こちらが思いもしない言葉を吐いて、困るのを楽しんでいるような意地の悪さが見え隠れする。
「あのな、俺が言いたいのはあんた自身のことだよ。冬崎はうちの学校の番長なんだ。下手に逆らわないほうが身のためだぜ」
「番長……なぁに、それ?」
「有体に言えば、柄の悪い連中のボスってやつだ。うちの学校の不良とか、いきがってるやつとか、そう言うのを仕切ってるわけ。ま、大人しくしてるか奴に取り入るかすれば、害はねぇな」
「あら、そう」
佑の話など何処吹く風、といった調子で、美燕は夜空を仰いだ。
その横顔が、月光を溶かした夜の闇を浴びて、ほの蒼く浮かびあがる。
「あんたがどーなろうと知ったこっちゃねぇけどよ。あいつの機嫌悪くするようなこと、しないで欲しいんだよ」
色々と面倒だしな、そう付け加えて美燕の表情を窺った。本当にこちらの話を聞いているのだろうか。夜天に散らばった星の群れを眺める美燕の横顔は、何の感情も示してはいない。
無視を決め込むつもりなら、別に構いはしない。忠告はした。あとは彼女の問題だ。自分が口を挟む道理はない。
これ以上の会話は無意味と悟った佑は、そのまま家路に着こうとした。
「番長、ねぇ……」
出し抜けに漏れた美燕の呟きが、佑の歩みを引き止める。
「それって、あたしもなれるかしら?」
「は?」
「今の番長が、冬崎クンなんでしょう。だったらあたしだってなれるはずだわ。ねぇ、どうすればその番長とやらになれるの?」
コペルニクスの地動説、はたまたダーヴィンの進化論にも匹敵する世界の心理を解き明かしたかのように、美燕は嬉々として笑った。無邪気に輝かせた瞳からは、それが冗談でないことがありありと窺える。
あまりにも常軌を逸した発言に、佑は絶句した。
確かに、現番長の人間をそのポストから引き摺り下ろすことは可能だ。女の番長だって、過去に存在したと言う話も聞く。実力さえあれば、誰にだって手に入る地位なのである。だがその実力と言うのが問題だった。番長と言うからには喧嘩が強いというのが常識であるが、何もそればかりで射止められるものでは出来ない。冬崎の時だって、お決まりの腕力勝負ではなく、かなりイレギュラーな方法で今の座を手に入れたのだから。
しかし南中の【いろは】も知らない、転校してきたばかりのよそ者となれば事情も変ってくる。美燕が善くても他のものが認めやしないはずだ。そもそも下手に扱えば折れてしまいそうな、いかにも脆い手足では、冬崎とまともに渡り合うことなど出来やしないだろう。
「冗談も大概にしろよな。痛い思いして、泣きを見るのはそっちだぜ」
荒々しく捨て去るように、佑は語気を強めた。
「冗談なもんですか。あたしは至って本気よ。それとも、あたしが冬崎クンの代わりになるのはお嫌?」
いっそ楽しげとも言える眼差しが、佑を囚える。
勝つのは自分だと、信じて疑わない驕慢な眼差しだった。
佑は答える気力を失くした。不思議そうに佑を見上げていた蘭丸を腕から降ろすと、黙々と歩き出す。
「逃げるの?」
すれ違いざま、挑発的な笑みとともにその言葉が贈られた。佑は聞こえなかった振りをして、街道へ続く階段へと向かってゆく。
何故か、胸騒ぎがした。荒れた海に打ち寄せる波にも似た、不穏なざわめき。あのまま彼女と対峙していたら、その波に飲み込まれてしまうのではないか。柄にもない不安が、佑の頭を掠め去る。
何事もなければいい。自分の思い過ごしであればいい。癪だけれどこの際、あの子の神秘的な美しさに怯んだということにしても構わなかった。ざわざわと音を立てる、不吉な予感が、現実にならなければ。
だが佑の祈りは儚くも打ち砕かれることになる。彼女が言ったことは総て虚言でも妄言でもないという現実は、この晩の月が消え、海他かなたから上がった太陽が天高く上りつめた頃、証明されることになるのだった。