一日中ぎらぎらする暑さを振りまき、洗ヶ崎の住人を悩ませ続けたお天道様が、水平線の彼方へ沈んでゆく。絶対的な強さで昼の空に君臨する太陽も、地球の自転には逆らえない。恨みがましげに姿を消してゆく空の支配者は、海辺の街を穏やかなオレンジ色に染め上げていった。
港にほど近いコンビニの駐車場に座り込んだ冬崎浩二は、上機嫌だった。商店街、カラオケ、ゲーセンと渡り歩き、浮かれはしゃいだ仲間たちの神経が、ここへ来て疲れを訴え始める中で、彼だけが鼻歌交じりにふんぞり返っている。泣く子も黙る南中の不良少年は、駐車場の縁石に腰掛けた少女をちらりと盗み見た。
右と左に冬崎の取り巻きを侍らせた転校生は、完全に彼らの空気に馴染んでいた。彼らのような柄の悪い連中を前にしても、物怖じ一つしない。それどころか逆に挑みかかってくるような素振りを見せることもあった。
ゲーセンでガンゲームに興じた時など、鮮やかな手腕で高得点を叩き出し、目を丸くした冬崎たちに挑発的な笑みを向けてきた。清楚な見た目とは裏腹に、相当気の強い性分らしい。そのギャップが、冬崎の心をくすぐった。
散々遊びまわったあと、次なる目的地を見つけられずにいた彼らは、手持ち無沙汰にコンビニにたむろしていた。五時のチャイムはとっくの昔に鳴り響き、健全な十四歳ならば家への帰路についている時分である。
だが彼らの頭が『帰宅』の二文字に辿り着くことはない。かと言って、思いつく限りの盛り場は行きつくした。とりあえず今は、こうしてコンビニの片隅で時間を弄ぶしか術がない。一同の間に、そんな惰性が漂う。
何となく間延びした雰囲気にあって、美燕の存在が場を華やかにしていた。だがその表情も、今はつまらなそうに沈んでいる。取り巻きたちとなにやら話している美燕を見ているうちに、冬崎はこの状況が我慢できなくなってきていた。
このままこの娘を、帰してしまうのは惜しい。
「おい、てめぇら。行くぞ」
出し抜けに立ち上がった冬崎を、仲間たちが不思議そうに見上げる。
「ンだよ。もう帰んのかよ、冬崎」
「ちげぇよ。まぁ、着いて来いって」
有無を言わさぬ口調の冬崎に促され、他の面々ものろのろと立ち上がり、歩き出したリーダーの後に従う。冬崎の足は、洗ヶ崎唯一の歓楽街へ向かっていた。
遊びまわった所為で懐は軽くなっていたが、この際気にしていられなかった。このまま放蕩を続けて財布の中に閑古鳥を飼う羽目になったとしても、美燕を手放す気にはなれない。その焦燥が、冬崎をある場処へ向かわせていた。
西の空に一番星が灯り、天が群青から濃紺へと色合いを変えてゆく。不良たちが歩く通りにも、徐々に看板の明かりが灯るようになっていった。それに連れて、崩れたいでたちのヤンキーや派手な化粧の女たちが姿を見せ始める。
目指す店は、通りの外れにあった。薄汚れたネオンが、硝子窓の向こうで『LIMONE PARADISO』の文字を描いている。酒と煙草、金と色欲が必要不可欠の基本要素となっているこの通りにあって、比較的まっとうなカフェレストランとして営業を続けて居られる店である。
同時に、素行のよろしくない高校生の溜まり場としても知られていた。そんな前知識もあってか、此処は何となく敬遠していた。こうして前に立つことはあっても、実際に中に入るのはこれが初めてである。
呆気にとられる仲間たちを無視して、冬崎は店の扉を押し開けた。中学生はお呼びでない、そんな雰囲気を全体から発しているが、気にしたら負けだ。此処で慣れている風を装えば、もしかしたらこの転校生の気を引くことが出来るかもしれない。
扉の向こうはひどく薄暗かった。古ぼけた時代物のランプシェードがあちこちでぽつねんと瞬き、埃を被ったミラーボールが天井に吊るされている。かと思えば南国風の観葉植物が置かれていたり、アメリカンスタイルのスロットが飾られたり、有線のハワイアンナンバーが低く流れていたりと、まとまりのない無国籍な趣のある店だった。
脂に汚れたカウンターの向こうで、髭を蓄えた中年の男が此方をじろりと睨みつける。
「……餓鬼に出す酒はねぇよ。とっとと帰んな」
「いらねーよ、そんなもん。飯くらいあんだろ、じじぃ」
入った瞬間に追い返されそうになり、冬崎は噛み付くような声で店員に怒鳴り返した。男は胡乱げに彼らを凝視した後、諦めたようにカウンターへメニューを放り投げる。それを拾い上げた冬崎は、真ん中のテーブルに坐って適当に注文をとった。
「宴会でも始めるつもりかよ」
「まぁな。蜂嶺の歓迎会ってやつだ」
「あら、ありがと。でもあたし、そんなにお金持ってないわよ」
「心配いらねぇよ。お前は俺らのおごり」
本当はそんな余裕はなかったのだが、冬崎はそれを気取られないよう尊大に笑って見せた。
「ひゅ〜、浩二ちゃん太っ腹〜」
「ふざけんな、誰がてめぇにおごるっつった」
身を乗り出して、向かいに坐る仲間を冗談半分に締め上げる。そのとき、後ろから剣呑な声がかかった。
「っせーよ、クソガキ」
吐き捨てるような言い草に、その場の全員が振り返る。店の奥に鎮座するジュークボックスの隣の席。そこに座る三人組が、冬崎たちにガン飛ばしていた。そのうちの一人が立ち上がって、彼らの席へ歩み寄る。
「ちったあ大人しくできねぇのかよ、ああ?」
「近頃のガキは教育がなってねぇなぁ」
「ほら、此処はおめーらみてぇな中坊が来るところじゃねぇんだよ。分かったらとっとと失せやがれ、ガキどもが」
高校生くらいだろうか。思いつく限りの罵倒を並べ立てながら、その男が仲間の一人・恩田圭の腕を掴んで椅子から引き摺り下ろそうとした。
「おいっ、待てよっ」
「んだよ、やンのか……ん?」
食って掛かってきた冬崎には目もくれず、その男は彼の隣に座った美燕に興味を示した。恩田から手を離すと、やおら美燕の顔をまじまじと覗き込む。
「へぇ。可愛いじゃん、彼女」
男の一言に、他の連中も席を立って美燕のまわりを取り囲んだ。
「マジ?!……うわっ、やべぇ俺超タイプ!」
「なーなー彼女ォ、こいつらなんか放っといて、俺らと遊び行かね?」
金のブレスレットをじゃらつかせながら、一人が美燕の肩に手を回した。その不躾な振る舞いに、冬崎の怒りが沸点に近づきかける。
「てめぇ……俺の女に手ぇ出すんじゃねぇよっ」
美燕を男から無理に引き離し、吼えた。引き寄せた反動で、美燕の体が冬崎にもたれる格好になる。美燕は怯えるように冬崎のシャツを掴むと、耳元でこっそり囁いた。
「あたし、強い人が好きなの。だから、頑張って」
その声につられて下を向けば、極上の笑みを浮かべた少女の顔が触れそうなほど近くにあった。その首筋から漂う、甘い匂いが冬崎の鼻を通り過ぎてゆく。
負けられねぇ。
冬崎はテーブルを蹴り上げ、高校生の一人に掴みかかった。次の瞬間突き出した拳が、相手の頬にのめり込む。
「……っテメェ……!!」
逆上した他の仲間が、冬崎の後ろから殴りかかってくる。拳がまともに入った。この野郎ッ。軽く眩みかけた意識の中、その男の向こう脛を蹴りつける。
「冬崎ッ、やめろって!」
突然の乱闘に、仲間の笹野文彦が止めに入った。だが時既に遅し、冬崎の喧嘩モードは完全にスイッチが入ってしまっている。笹野の制止の手を振り切って、冬崎は猛然と高校生たちに突っ込んでいった。
「やばいって、冬崎!」
「ごちゃごちゃうるせぇよ!」
美燕に言い寄った男が仲裁に入った笹野の頭を掴み、テーブルに叩きつける。とりなしに駆け寄ったものたちも乱闘の餌食となり、店内はたちまち怒号と混乱の渦に巻き込まれた。
「おいっ、貴様らうちの店をぶっ壊す気かっ!」
カウンターの店員もその渦に飛び込んでゆく。もはや誰が誰と取っ組み合いをしているのか判然としなくなった頃、冬崎は美燕の姿を探した。
「……おい、蜂嶺?!」
きょろきょろと辺りを見渡した冬崎は肩を掴まれ、振り返った拍子に一発お見舞いされた。よろけて壁に凭れ掛かった冬崎の目に、少女の後ろ姿が飛び込んでくる。
「え……」
少女は平然とした様子で、店の扉を開けた。ぽかんと口を開けた冬崎の目の前に、高校生が立ちはだかる。
「どこ見てんだよ、ああ?」
「おい、待て……蜂嶺、蜂嶺――ッ」
冬崎の叫びは、美燕には届かなかったらしい。冬崎が高校生にもう一発殴られる頃には、少女は夜闇の向こうへと姿を消していった。
「あれ、珍しいね。お姉ちゃんがネット繋ぐなんて」
リビングの隅っこに放置されているパソコンに向かい合っていると、テレビを見ていた妹が不思議そうに声を掛けてきた。うん、ちょっとね。膝の上に広げた雑誌に目を落としていた来々が、気のない返事で答える。
気付いたのは、まったくの偶然だった。たまたま部活仲間の宵華から借りたクラッシック音楽の隔月誌。明日返そうと思って何気なく読み返していたとき、その名を見つけた。
蜂嶺足穂 。
名前だけなら、来々も耳にしたことがある。世界的なオーケストラの指揮者。メジャーな名前ではないものの、憂愁と叙情に満ちていながら、それが機械的な秩序の歯車の中で噛みあい、やがて一つの音楽を作り出す特異な世界観は、一部のコアなファンの支持を受けていた(ちなみにこれは、雑誌の受け売りだ)。知る人ぞ知る、カルトな音楽家である。
借りた雑誌には、彼の特集が組まれていた。そこに大きく書かれた蜂嶺と言う名前を見出すや否や、来々はパソコンの前へ駆け出していたというわけだ。
今日やってきたばかりの転校生と、その名を結びつけるのは安易かもしれない。だが蜂嶺など、そうそうお目にかかれる苗字ではないのだ。これが鈴木とか佐藤とか言うなら、こんな胸騒ぎなどするはずもないのである。
様々な検索サイトを行き来しながら、来々はある情景に囚われていた。今朝ふっと頭に浮かんだ、自分の年齢すら定かではない幼い頃の思い出。
鮮やかに照り返る夕映え、小さな公園に佇む少女の影。
あの時。来々のささやかな記憶に、新たな思い出が付け足される。彼女に声を掛けられたとき、潮騒の他にピアノの伴奏が聞こえていた。誰だって一度は聞いたことのある、シューマンの『トロイメライ』。けだるい微睡みから目覚めるような、かすかな旋律。
そう、確かあれはあの洋館から聴こえてきたのではなかったか。どこか煤ぼけた古いピアノの音色は、夢見心地に暮れてゆく夏の日の終わりを、憂えているようだった――――。
蜂嶺氏のプロフィールは、すぐに見つかった。公式サイトのみならず、あちこちに彼のプライバシーが綴られている。
蜂嶺足穂。十九××年十一月二〇日生まれ。B型。K県に生まれる。××年に●●音楽学校を卒業後、単身でオーストリアに留学。音楽活動をする傍ら、現地の女性と××年に結婚――――。
流石に子どもの名前までは書かれていないか。ファンページに書かれた比較的詳細な記事を読み終えた来々は、肩透かしを食らったようにため息を吐く。だがすぐに、えもいわれぬ違和感に身を竦ませた。
「――― え、」
読んだばかりのページに、再度眼を通す。やはり自分の勘違いだったのか?不安に駆られた来々は、熱に浮かされたように、画面の下にあったリンクページへアクセスした。題目は『蜂嶺足穂とその家族』。
やがて画面に、蜂嶺氏と妻、そして彼の幼い子どもが写っている画像が現われた。柔らかにウエーヴした栗色の髪に、蒼みがかった灰色の瞳。蜂嶺氏の隣に寄り添う、際立って美しい目鼻立ちの女性は、今日逢ったばかりの転校生と瓜二つだった。
その画像の下にある蜂嶺氏の経歴、そして彼の家族についてのコメントを眼にした来々が、絶句する。
バカな。そんなはずはない。それじゃあ、あのコは……
背後から、お笑い芸人の下品な笑い声が聞こえてくる。その引き攣った哄笑を聞きながら、来々は呆然とパソコンを見つめていた。