教室の空気がいつもと違う。何か特別なお祭が始まる前触れみたいに、熱っぽく浮き足立っている。
榊 来々は机に頬杖をつきながら、落ち着かない気分で教室のかなたこなたに視線をめぐらした。
入り口でふざけあっている、男子たちの様子が違う。他愛のないお喋りを交わす女の子たちの顔色が違う。みんながみんな、教室に紛れ込んだ新しい存在に気をとられているのだ。なんでもない振りをしつつ、ひどく浮わついた好奇の目をそれに注いでいる。来々はもうそれだけで、自分が監視されているような罪悪感を覚えていたたまれなくなった。
来々はクラス中―――
いや、学校中の関心を現在進行形で一身に集めている少女をちらりと盗み見る。
問題の転校生は、ぴんと背筋を伸ばして大人しく自分の席についていた。時折興味を示した女生徒の幾人かが、おそるおそる話しかけるのに応じる姿を見かけたが、それ以外はあたかも彫刻のように黙り込んだまま、何をするでもなく時が過ぎるのを待っているようだった。
『東京の茗景学園から参りました、蜂嶺 美燕です。こちらに来たばかりで不慣れなこともありますが、どうぞよろしくお願いします』
初めて口を開いた彼女が、大人びた挨拶をしたときのことが頭に過ぎる。落ち着きのある甘やかな声が、来々の耳の底に心地よく残っていた。
うーん、亜美沙姐さんの言ったとおり……いや、それ以上だわ。
部活の朝練を終えて教室に入ったとき、クラスメイトの早乙女
亜美沙がやや興奮したように、今朝この転校生と遭遇したと言っていたのを思い出す。いつもは冷静でしっかり者の亜美沙も、今日ばかりはみんなに急き立てられるまま、彼女の話題を語っていた。
亜美沙姐さんが話したくなるの、分かる気がするな。それは安易に噂を広めようとする、無責任な気持ちではない。何かとんでもないものを見た、誰かに言わなければという、奇妙な義務感と切迫感の入り混じった形のない不安だ。そんな気持ちを掻き立てるような「何か」が、この少女にはある。
とても禍々しくて、でも触れずに入られない「何か」。
それがどんな姿をしているのか分からなかったけれど、来々も亜美沙も、この学校全体が、その匂いを敏感に嗅ぎ取っていたのだった。
彼女の到来を告げたのが亜美沙でなかったとしたら、こんな気分は味わえなかっただろうと来々は確信している。亜美沙のように、堅実で迂闊なことは口にしない人間が齎した噂だったからこそ、彼女はこんなにも謎めいた存在になれたのだ。
もしこれが噂とお喋りとを始終連れて歩いている人間だと、こうはいかない。そう、例えばー―――……
「ねぇっ、ララっ!佑ったらひどいんだよっ、さっきメールくれてやったのに、ひとっことも返事寄越さないの!!」
「――― 瑛莉」
後ろから大袈裟に肩を揺すぶられ、半ば前後不覚に陥りながら、来々は辛うじてその名を呼ぶ。
「せっかく超キレイな転校生が来たって教えてあげたのに、ひどくない?薄情だわ、幼馴染みに向かって、なにこの仕打ち。どぉせまたあたしがつまんねぇこと言ってる〜って、鼻で笑ってるんだ。ま、あたしには関係ないけどさ。そうやって一匹狼気取って、あとで後悔しても困るのは佑なんだしね〜」
「……美浦くんが、なんだって?」
次から次へと積み重なってゆくセンテンスの間に、何とか自分の台詞を差し込んだ。興奮した瑛莉の会話のテンポの速さは、通常の人間の五倍はある。おっとりした来々にしてみれば、各駅停車の駅から新幹線に飛び乗るくらいの覚悟がないと、話についてゆくことが出来ないのだ。
「あぁ、うーん、こっちの話。ただあいつが始業式サボった所為で、あのコの顔拝めないなんて、ざまぁみろって思ってるだけ」
「……そう」
当初の話を十分の一くらい省略して、瑛莉が言い切った。何がどうなったのかよく分からないといった表情で、来々が顎を引く。
決して悪い娘ではないし、性格も明るく面白い。だが如何せん話についていくのに労力を要するのが、この娘の欠陥であった。テンションが常人よりも高すぎるのか、はたまた異常なほど頭の回転が速いのか、来々はいつも疑問に思っているのだが、彼女の幼馴染みの美浦佑に言わせれば『コンマ一秒でも黙っていられない無鉄砲な単細胞バカ』なのであるらしかった。
「それにしてもすごい人気だねぇ、転校生ちゃん。さっきからずーっと見てるけど、ほれ。違うクラスからもかなり見物客が来てる」
瑛莉が指した方向には、明らかに三組の人間ではない生徒が多数見受けられた。大抵は教室の入り口から転校生の顔を覗きに来るか、クラスの誰かに用がある振りをして彼女の姿を拝みに来るかのいずれかである。教室に入ってまで彼女に話しかけようとする強者は、今のところ皆無だった。
「しかも見事に男子ばっか。現金よねぇ、男子って」
「見世物じゃないのにね。蜂峰さん可哀想」
「ちっちっ、甘いわね、ララちゃんは」
人差し指を左右に振りながら、瑛莉がにんまりと笑う。
「何せあの幽霊屋敷に越してきた人間だからねぇ。洗ヶ崎の七不思議、山の手化け物屋敷に住んでるってだけでもびっくりなのに、東京の私立からこーんな辺鄙な公立中に転入してきて、初日から遅刻かましても平然としてて、尚且つあの美少女っぷりだよ?注目されない方がおかしいよ。どーかしてるよ。もし気にならないやつがこの学校にいたら、見てみたいもんだわ。そいつは絶対モグリよ、やらせよ、宇宙人よっ!」
「なんでそこで宇宙人が出てくるかな」
「言葉のアヤってやつ?ま、あのコが望む望まないに関わらず、暫くは針のむしろ状態が続くんじゃないの?」
あっけらかんと言っているものの、それが一過性のものであると十分承知しているかのような口ぶりだった。人の噂も七十五日を数限りなく体現してきた、歩く噂話拡張器の瑛莉である。人の興味などそう長く続かないことは、知りすぎるほど知っていた。
「それよりさ、二組の冬崎があのコを仲間にするってよ」
「何、それ」
「始業式のときにビビっと来たんだと。さっき鱒淵君に借りてたCD返しに行ったんだけどさ、冬崎の奴、あいつは俺の女だ、俺の彼女にならないで誰の彼女になるって騒いでた」
本当に、よくこんな話を聞きつけてくるものだ。瑛莉の情報吸引力は最新式の掃除機以上かもしれないと、来々は内心舌を巻いた。
冬崎とは、洗ヶ崎南中を牛耳る不良グループの中心人物である。問題を起こすことと、暴力で人を制圧することにかけては右に出るものはいない。出る杭はたとえ一ミリであっても完膚なきまでに打ち込まなければ気のすまない性分であり、その容赦のなさは生徒たちの恐怖の的であった。
いつだったか、自分よりも派手な自転車に乗っているからと言って、一年生の男子を袋叩きにし、自転車をバラバラに解体したというとんでもない事件を起こしたことがあった。子どもの悋気じみた振る舞いではあるが、それが彼の名と恐怖を結びつけたのも事実ではある。
とにかく冬崎とは生徒たちに植え付けた恐怖によって、学校における自分の存在意義を主張しているような男だった。
「ほら、噂をすればなんとやら、だね」
急に声を低めた瑛莉が、来々にそっと耳打ちした。彼女の視線の先には、半袖のワイシャツの下に赤黄色、緑に黒などの派手なTシャツを着込んだ男子生徒たちが群がっている。彼らが入ってきた瞬間、教室中が一斉に硬直した。
皆いちように黒く日焼けし、台風に煽られて元に戻らなくなったんじゃないかと思うほど髪を逆立てている。その中でも一際上背のある頑丈な体つきの男子が、蜂嶺美燕のもとへのっそりと歩み寄った。
「よぉ、転校生。学校はどーだ、楽しいか?」
微妙な訛りの混じった口調で、男子―――
冬崎浩二が馴れ馴れしく美燕に話しかける。それを聞いた瑛莉が、たまらず噴き出した。
「手塚!てめぇ何笑ってンだよ」
「来たばっかなのに、楽しいも何もないっての。もーちょい気の利いたこと言えば、冬崎」
「ンだとぉ?!おめぇな、美浦がついてるからって調子のんじゃねぞ」
「はいはい、ごめんね〜冬崎君。でもあんま怒んないほうがいいよー、そのコ恐がって逃げちゃうかもよ〜」
「ぐっ………」
瑛莉の屈託のなさは危険だ。誰彼構わず見境なく接する社交性は確かに類稀なものであろうが、相手の優位性すら見極めない無遠慮さは褒められたものではない。だがこの時ばかりは、彼女の無鉄砲な横槍は冬崎の神経を切り裂かずに済んだようであった。
「ひゅー、瑛莉ちゃんかっこいいー!!」
「ありがと〜☆トッキ―も相変わらずかっこいいーよ〜♪」
「oh!わかってるねー、瑛莉ちゃんは!!」
掠れた声で野次をとばした冬崎の取り巻きに向かって手を振ると、瑛莉は再び冬崎に向き直った。
「お気になさらず、どぞ。続けてくださいな」
邪気のない笑顔で促されては、冬崎とて反論のしようがない。そんな彼らのやり取りを、例の転校生は冷めたまなざしで眺めていた。
「あ〜、あんたもさ、こっち来たばっかでわかんねぇことなんかあんだろ」
瑛莉の邪魔が入った所為で、いまいち調子が出ないらしい。先刻までの威勢は何処へやら、冬崎は視線を明後日の方向へ飛ばしながら、再度美燕に語りかけた。
「俺でよけりゃ、教えてやんぜ。学校のこととか、色々な」
「…………」
冬崎の口唇の端が、いやらしく持ち上がる。喋っているうちに気合が入ってきたのだろう。そんな冬崎を、美燕は頭のてっぺんから爪先まで見つめていた。値踏みするような視線だった。
「んで、お近づきの印って言っちゃあ何だが、放課後俺らと遊び行かねぇか?いいとこ案内するぜ」
「…………」
「そう怖がんなって。仲良くしようぜ、な」
「……いいわよ」
短く答えた美燕が、鞄を持って立ち上がる。そして颯爽と教室を出て行こうとした。
「おい、おめぇ何処へ……」
「遊び、行くんでしょ?早く案内して頂戴」
こともなげに言い切った美燕を、冬先たちが呆気に取られたように眺める。やがて冬崎たちは悪い夢から覚めたように、彼女の後へ続いた。
「おいっ。お前ら帰りのホームルームは……」
教室に戻ってきた安藤が、不良生徒たちが帰ろうとするのを見咎める。
「勝手にやってろ」
「俺らはこのままデートなんで〜」
「さいなら〜安藤さん。まったね〜」
彼らは教師の注意など何処吹く風といった調子で、階段を駆け降りていった。何かを怒鳴った安藤が、その後に続く。だがきっと、上手く逃げられてしまうに違いない。
信じらんない。ほんとに付いてっちゃうなんて。
まるで冬崎たちを従えるように去って行った美燕のことは、また新たな物語とともに学校中を駆け巡るだろう。そんな予感を抱いた来々の瞳には、あっという間に空っぽになった席だけが写っていた。