「蜜蜂ボーヤ、口開けて」
 頭上から降ってきた声につられて、たすくは思わず口を開いた。続けざまに、その中へなにやら放り込まれる。甘酸っぱい香りが、ふんわりと口腔に満ちていった。
「九月の新商品。さくらんぼ味なんだけど、どう?」
「――― お前、またこんなもん持ってきたの?」
 幼馴染みの問いには答えずに、佑は貰ったばかりのドロップを、口の中で転がした。
「安藤にまた叱られるぞ。校則違反だって」
「なーにー、その言い草。佑がうっかり煙草に手ぇ出さないようにあげたのにさっ。大体、煙草吸ってる佑のほうがよーっぽどタチ悪いじゃん、法律違反じゃん。犯罪なんだよ、自覚あんの?」
「はいはい。お気遣いどーも。俺は瑛莉えいりみてーに、そんなヘマしねぇよ」
 おざなりに礼を言って、再び花壇の手入れに取り掛かる。ざっと見たところ、異常はない。佑は満足げに、如雨露じょうろを手に取った。保健室の掃除当番に当たった瑛莉は、保健室の窓に寄りかかって、つまらなそうに佑の熱心な仕事ぶりを見守る。
「ほんとにマメだよねー、佑。いっそのこと用務員にでもなれば?」
「仕事になんかしたくねぇよこんなの。それより、冬崎達また暴れたんだって?」
「あー、そのことねー」
 普段なら、息せき切って報告に走るはずの瑛莉が、苦々しく口ごもる。珍しいこともあるものだ。佑は如雨露を傾けながら、瑛莉の言葉を待った。
「冬崎が暴れたんじゃなくて、蜂嶺さん……例の転校生が、あいつらのことぼっこぼこにしちゃったんだよ」
 思いもしない展開に、佑は危うく如雨露を落としかけた。辛うじて注ぎ口を支え、驚いた顔で窓辺の瑛莉を仰ぎ見る。
「いや、あたしだってびっくりしたよぉ。何せあの不良たちを瞬殺だもんねー。カッコ良かったよー、蜂嶺さん。動きからして、ただ者じゃないってカンジ?」
「――― で、今冬崎は?」
「蜂嶺さんと一緒に、戸隠先生に絞られてる。でも今回はあいつらも見逃してもらえるかもね。一方的にやられただけだし。なに、やっぱ佑も冬崎のこと、気になってんの?」
「そんなことはない、断じて違う」
 やたらきっぱり言い切ったあと、佑は憂鬱になった。あいつらは結局、生徒指導室送りにされたわけだ。この分だと冬崎の奴、憂さ晴らしに昇降口前の花壇を踏み荒らすかもしれない。くそ、あの女、何て面倒なことしやがったんだ。
 佑は密かに、あの転校生の所業を呪った。
「でもさ、マジで蜂嶺さん強かったんだって。佑とやりあったら、どっちが勝つかなぁ」
「何だよ、それ」
「腕としては互角。力は佑のほうが上かな。でもスピードで言ったら蜂嶺さんのほうが……」
 嬉々として窓枠から身を乗り出した瑛莉の顔が、俄かに蒼くなった。そのままおもむろに、首を横へ曲げる。つられて佑もそちらを見遣れば、憮然とした表情の美燕びえんが、少し離れた校舎の壁に寄りかかっていた。
「じ……じゃあ。まったねー、佑!」
 まことに不自然な動作で手を振るや、瑛莉はガラスを破壊しかねない勢いで窓を閉めた。佑が口を開きかけた頃には、保健室のカーテンは鋭い音と共に閉じられてしまっている。
「蜜蜂ボーヤ。それが、貴方のお名前?」
「――― 何時から居たんだよ」
 佑は仕方なく、美燕をじろりと見遣る。
「もう結構前から。もしかして、お邪魔だったかしら?」
「居たなら、何か言えよ」
「可愛いコだったわね。彼女?」
「ちげぇよ。幼馴染み。同じクラスだろ。つか、俺の話聞けよ」
 美燕は苛々と足踏みしはじめた佑をくすりと笑うと、
「せっかちな人ねぇ。ちゃんと聞いてるわよ」
 にらみつける佑の脇をすり抜け、校舎の端でふと足を止めた。その場ですとんと、腰を屈める。
「ねぇ、この花何て言うの?」
 ブラウスから伸びた細い腕が、ついと持ち上がる。薄紅の指先は、壁を這う蔦と、萎びはじめた淡青みず色の蕾に向けられていた。
「時計草。……そういやあんた、昨日もこれ見てただろ」
「良くご存知ね」
 佑の問いに、美燕が青みを帯びた灰色の目を瞠いた。
「そうよ、丁度うちにも咲いてるの。変な形の花だなぁって、ずっと気になってて」
 瞬間、佑の脳裏に、蔦に覆われたあの洋館が浮かび上がった。血管めいた時計草の蔦がなやましく絡みあい、古びた洋館を締め上げるヴィジョン。その奥にいるのは、この少女だ。百年の眠りにつく美しい少女は、花の幻影に埋もれ、苛まれながら、館の扉が開かれ、目覚める瞬間を待ち侘びている。
「――― ねぇ、貴方って強いの?」
 出し抜けにそう問われ、佑の意識は一気に現実に引き戻された。
「何で、」
「あの女のコが言ってたじゃない。それに冬崎クンも言ってたわ。何時までも調子に乗っていられると思うなよ、美浦とやりあったら、お前なんか無事じゃいられないってね。ね、それって貴方のことなんでしょ?」
「知るかよ、人違いじゃねぇの」
 素っ気なく言い捨てて、佑は如雨露を片付ける振りをした。
 確かに冬崎程度なら、腕力で負けない自信がある。だがそれは、冬崎達にまともな喧嘩の心得がないだけで、佑が別段優れた能力を持っているわけではないのだ。
 そもそも佑には、必要以上に暴力をふるう趣味はない。しかし一年の時分に冬崎達とやりあって勝利してしまったがために、佑にも『不良生徒』という甚だ迷惑なレッテルが貼られてしまったことも事実だった。
「そんなに強いなら、お手合わせ願いたいわね」
 否定する佑を嘲笑うような美燕の台詞に、佑がうんざりと顰めた顔を上げる。
「断る。俺は特にはならねぇ喧嘩はしねぇ主義なんだよ」
「あら、偶然。あたしも同じ意見よ」
「でも、あいつとはやったじゃん。あんたにとって、冬崎との喧嘩は得なることなわけ?」
「そうよ。だってあたし、番長になるんだもの」
 またその話か。けろりとした顔で言い放った美燕を、佑は忌々しげに睨んだ。番長になることを望む彼女に、どんな理由があるのか知らない。知りたいとも思わない。だがこんな世迷い言をいつまでも野放しにしておくのは、いくらなんでも危険だと、佑の直感が告げていた。
「それこそ、悪い望みだな。さっさと捨てちまった方が身のためだ。あんまり余計なことすると、マジで俺も切れるぞ」
「やっぱり。貴方も倒さないといけないのね」
 嘆かわしげに溜息をついた美燕が、小さく肩を竦めた。
 この娘、どうも『番長』と言うポストを勘違いしているらしい。それはゲームの敵を倒すように、目の前に立ちはだかる人間を排除することで得られるものではないのだ。
 『番長』とは、学校の裏社会を仕切る人間だ。校則や道徳では治めきれない生徒たちの闇の部分に、秩序を与えられる人間だけが、その座に就くことを許される。
 冬崎にそんな能力があるはずもなかったが、彼の凶暴性は生徒たちの畏怖の対象になるには充分だった。言い換えればその畏怖こそが、冬崎なりの秩序の証なのである。
「俺は番長ごっこには関係ねぇよ。でもあんたが何か厄介ごとを持ち込んだら、俺は容赦しないかもしれない。俺の怒りに触れない程度なら、なにやったって構わねぇよ。それは、あんたの自由だもんな」
 佑はとりあえず、素直な意見を述べた。美燕が何か言おうと口を開きかけ……言葉を飲み込む。かわりに自分の帰る場所を見つけたような、どこか安堵したような眼差しで佑を見つめたのだった。
 潮を含んだ生温い風が、二人の間を通り過ぎてゆく。
 やがて美燕は無言のまま立ち上がり、佑へ背を向けた。妙なものがやっと消えてくれた、そんな面持ちで美燕の背中を見送った佑だったが、ふと頭上に違和感を覚えて空を見上げる。強い日差しに溢れた青空が、佑の目をするどく射抜いた。
「……待てッ、蜂嶺ッ!!」
 そう叫ぶ頃には、足が前に駆け出している。振り向いた美燕が、驚いたように眼を見張り……次の瞬間、佑が彼女を突き飛ばすように飛び掛った。
「ちょっ、なに……」
 甲高い悲鳴に、何かが割れる不吉な音が重なった。今しがた美燕が立っていた場所には、砕け散った鉢植えが、土とともにあたりに散らばっている。   
――― ベランダの……
 佑は再び頭上へ眼をやった。その視線の先には、半円形にせり出したベランダがある。昨日の朝佑が片付けた鉢植えが並ぶ、多目的ホールのベランダ。
 だが鉢植えを、うっかり下へ落としてしまうような位置に置いた覚えはない。第一、あのベランダはアルミの手摺りに囲まれているはずである。うっかりも何も、鉢植えが落ちるようなことはありえないのだ。だとすれば―――
「ああ、びっくりした」
 感嘆の溜息にも似た囁きが、佑の首筋にかかる。弾かれたように視線を戻せば、人形めいた少女の横顔が真下にあった。佑はそこで、自分が美燕を押し倒していることに気付いた。
「ほあっ?!」
 美燕を助けるためとはいえ、自分の所業に取り乱した佑は後ろへのけぞった。佑の重みから解放された美燕は、気だるげに身を起こそうとした。
「……だ、大丈夫……か?」
 ぎこちなく差し出した佑の腕が、うつぶせになった美燕の体を持ち上げようとする。それがいけなかった。動揺していたためか、腋に差し入れた腕が、誤って美燕の胸に触れてしまったのである。
 だがそこにあるべき柔らかなふくらみは、存在しなかった。
「ちょっ、どこ触ってんのよっ?!」
「…… え、」
 いきなり耳元で怒鳴られた佑は、その意味を瞬時に理解出来なかった。やがて自分の腕の所在に気付いて咄嗟にそれを引っ込める。だがなんとも言えぬ違和感は拭いきれなかった。
 佑はもう一度、美燕の制服の胸元を凝視した。
 女子中学生相応のふくらみは見受けられる。だとしたらあの感触は一体なんだったのだろう。たとえ美燕の胸が洗濯板だったとしても、あんなに引き締まっているはずはない。あのしなやかでありながら固い感触は、まるで――― ……
「……まさか、」
 佑は引き攣った声で、静かに叫んだ。
「お前、男?!」



 さかき来々ららは校舎の影で、青褪めていた。
 この壁を曲がった先には、佑と美燕がいる。何故か二人で縺れ合って地面に倒れている。しかし重要なのはそこではなかった。
 ――― それじゃあ、やっぱりあのコは……!!
 今しがた佑が口走った言葉が耳で反響している。それと同時に、昨夜インターネットで探し当てた蜂嶺足穂たるほ氏の家族のプロフィールが脳裏を駆け巡った。
 ××年、妻の故郷のオーストリアで長兄が誕生―――
 蜂嶺氏の家族はデザイナーである妻のヴィクトワール=シュテファン女史と、一人息子の三人であり――――
 美燕とよく似た顔立ちの女性。その横で此方を睨みつける、あどけない少年。在りし日の黄昏に佇む少女と同じ顔をした、少年。
 次々と繋がってゆく謎の符合が胸を塞ぎ、息苦しくなってゆく。来々は助けを求めるように、小さく喘いだ。
「おい、待てよッ」
 壁の向こうで、佑の声がする。美燕が去っていったのだろう。先刻のように、燕が空を飛んで行くような軽やかさで。
 来々はこっそりと、校舎の影から佑の様子を窺った。呆然と立ち尽くしていた少年は、困惑を持て余すように振り返る。その視線が運悪く来々を捕え、お互いにぎょっと身を竦ませた。
「……榊、」
 佑がこちらへ駆けてくる。それを待たずに、来々はその場から逃げ出した。何故逃げるのか、自分でもよく分からなかった。
 ただひとつ、確かなものがあった。今の自分では到底処理しきれない、厄介以外の何者でもないもの。それが来々の体中を、激流のように駆け巡ってゆく。


 知ってはいけないこと。禍々しい秘密。
 あの転校生を、謎めいた魅力で飾り立てるもの。
 その秘密の鍵を、どんな因果か宿命か、自分が手にしてしまったということだけが、彼女の頭を支配していたのだった。