「や、これはどうも」
転入生を教室へ案内し、簡単なホームルームを終えた安藤が職員室に戻ったとき、背中合わせの席に座った大内保 教諭は、淹れたてのコーヒーを英語教師の仁木幸子 から受け取っている最中だった。
「いつもすみませんなぁ、仁木先生」
「いえいえ。安藤先生も、どうぞ」
「あ、どうも」
にこやかな笑顔と共にカップを渡され、安藤は半ば機械的にそれを受け取る。コーヒーの香ばしい薫りが、鼻腔を擽って消えていった。
「大変でしたねぇ、安藤先生。式の最中に転校生が来るなんて」
「本当に、冷や冷やしましたよ。転校初日に遅刻だなんて、非常識もいいところだ」
校長の話が終盤に差し掛かった頃、ふらりと思い出したように現われた新しい生徒の姿を思い出して、安藤は苦々しげに顔を顰めた。仁木もそれに同情するように、何度も首を振っている。
良識的な彼女にしてみれば、あの転校生の振る舞いは許しがたいものなのだろう。何時も柔和な笑みを絶やさない彼女も、不服げに顔を曇らせている。
「けど、あれはまたえらい美人でしたねぇ」
向かいの席の喜多が、声を低めながらそう言った。まるで誰かに聞かれたら、困るとでも言うように。
「東京の私立から来たんでしょう?どおりで垢抜けているはずだ」
「それを差し引いたとしても、相当ですよ」
味の薄いコーヒーを啜っていた大内も、喜多の発言に同調する。
「顔を見たとき、度肝を抜かれましたよ。ここだけの話、うっかり見とれてしまったくらいですから」
あの少女を思い出しているのだろう。大内の眼差しはどこか夢見るような―――いや、憧れのグラビアアイドルに遭遇して恍惚となっている男子高校生のそれである。
安藤は対照的に、浮かない顔で同僚たちの好き勝手な意見を聞き流していた。自分も彼らくらい楽観的になれたらどんなに気が楽だろう。『遅くなりました。今日転入して参りました
蜂嶺 です。安藤先生は、どちらにいらっしゃいますか?』
式の最中、体育館の入り口から聞こえてきた声が安藤の耳に甦る。迷いのない、芯の強い声だった。落ち着いていながら澄んだ響きを失わない、透明感のあるアルト。
名前を呼ばれて、後ろを振り返る。ほんの一瞬、我を忘れてしまうほど美しい少女が、視界に飛び込んできた。
どこか異国の血が混じっているのだろうか。彫りの深い華やかな顔立ちといい、柔らかな栗色の髪といい、金の睫毛に縁取られた銀鼠 色の瞳といい、明らかに日本人離れしている。こんな田舎の古びた体育館に立っていることすら場違いに思われる、典雅な美貌。
「蜂嶺美燕 さん……ですね。担任の安藤です」
だが安藤は、いつまでもその美しさに絆 されはしなかった。厳しい視線を投げつけながら、少女のもとへ歩み寄る。転入早々遅刻した生徒をなじるかのように、威圧的に。
「初めまして、蜂嶺です。初日からご迷惑をお掛けしました。以後、このような失礼がないように気をつけます」
叱責するより早く、転入生が自らの非礼を詫びたため、安藤は拍子抜けする。その口ぶりは、子どもの悪戯を謝罪する母親のそれのように冷め切っていた。
自分の非を認める一方で、それをどこか人事のように受け止めている。きっと腹の底では微塵も悪いなどと思っていないに違いない。この少女からは、そんな酷薄さが感じられた。
「……ま、今日は大目に見るとしよう。次からは気をつけるように」
「はい」
例によって神妙な、だがどこか礼を欠いた表情で少女が頷く。そのまま静かな足取りで、ステージの控え室へ歩いていった安藤の後を追った。
「今日は始業式だから、全校生の前で紹介を行う。式の最後になるから、名前を呼ばれたらステージの端に出て行ってくれ」
「――― 私は何か言った方がいいのでしょうか」
ステージ脇の控え室で(実際はただの物置だ。狭いスペースに、様々な備品が詰め込まれている)、転入生はそう問うた。
「そう言う決まりはないな。何か言いたいことでも?」
「……いえ、」
美しい少女は、気だるげに首を振った。舞台の袖の暗がりの中、彼女の顔だけが淡く白い輪郭を浮かび上がらせている。あたかも内側から、見えない燐光でも放っているかのように。
それは怠惰と驕慢の表れだった。こんな退屈な式など、早く終わればいい。少女の覇気のない表情が、それを物語っていた。
自分のクラスの不良なら、喝のひとつでも入れていることだろう。だらけるな、人の話は真面目に聞けと、叱りつけているだろう。だが彼女には言えなかった。
顔かたちが見目麗しいからではない。この少女には、隙がなかった。安藤の叱責を受け入れる空白が、彼女には感じられない。小言を言ったところで、如才のない例の顔で、しおらしく頭を下げるに違いないのである。その裏で、安藤に向かって舌を出しながら。
「もうそろそろだな」
生徒への表彰、新学期に向けての諸注意、諸連絡が終わり、式ももう間もなく終わりの兆しを見せ始めた。その気配を感じ取ったのだろう、それまで大人しかった生徒たちの間に、様々なお喋りが取り交わされ始める。
「式が終わったら、教室へ案内する。学校のことはそのあと説明しよう」
「はい」
安藤の言葉が終わらないうちに、転入生の名が呼ばれた。
声を掛けるより早く、少女がステージへ進み出た。その姿が全校生の目に触れた刹那、無秩序だった生徒たちのざわめきが止む。続いて、溜息とも、驚きのあまり息が止まったともつかぬ呼吸の波が、漣のように体育館中をさぁーッと覆いつくしていった。
うだるような暑さの中に閉じ込められた生徒たちの視線が、少女に吸い寄せられてゆく。あたかも新興宗教の神聖な儀式めいて張りつめた空気の中で、少女はぐるりと体育館を見渡した。自分が彼らの視線を支配しているのだと言うことを、十分に自覚している眼差しで。
安藤の目も、少女の横顔に釘付けになる。呆れるほど整った鼻筋と、線の細い華奢な顎。その中心に乗った、柔らかな桜色の口唇が曰くありげな微笑を象った。そのかすかな笑みに、安藤は何故かぞっとする。
何か得体の知れないことが起こるかもしれないという、それは予言めいた未来のお告げであった。「もう、大内先生に喜多先生。不謹慎ですよ、そんな話題は」
咎めるような仁木の口調に、安藤がはっと我に返る。
「確かに蜂峰さんがお綺麗なのは認めますけどね。職員室で女生徒の容貌について話すのは感心しません。誰が聞いてるかわかりませんからね」
生徒を注意する時のように仁木に叱られて、大内は背中を丸めてすみませんと呟いた。まるで親に叱られた子どもである。実際、ふくよかで目尻に優しげな皺の寄った仁木は、母親のような風情があった。安藤は何となくほほえましい思いで、二人を見遣る。
「年寄りの僻みじゃありませんよ。今のご時勢、女生徒に触っただけでPTAが目くじら立てるんですから。同僚がセクハラで訴えられるようなことになったら、いやですからね、私は」
小さくなった大内から、空になった珈琲カップを取り上げると、仁木は給水室の方へ歩いていった。
「――― そう言うことで、安藤先生も気をつけてくださいよ」
それまで三人のやり取りを見守っていた喜多が、身を乗り出して耳打ちしてくる。どうやら仁木が去るのを待っていたらしい。
「私がそんなヘマを冒すとでもお思いですか、喜多先生」
「まさか。とんでもないです」
喜多がいかにも心外といった様子で首を振る。
「他の方……いや、うちの男子生徒なら彼女の美貌に飛びつくことはあるでしょうけどね。貴方は賢明な方だ、その心配はない。僕が言いたいのは、別のことですよ」
「別……と、仰ると?」
芸術家気質の所為か、喜多には掴めないところが多い。含みを持たせて話題を打ち切ると言うことはしょっしゅうあった。相手の困惑を楽しむように、喜多がにっと口唇を吊り上げる。
「昔から謎めいた美しい女と言うのは、運命の女 である、と相場が決まっています。サロメにカルメン、ナナに椿姫にマノン・レスコー」
「はぁ?」
「額田王や楊貴妃だって例外じゃない。白雪姫やかぐや姫、眠り姫のような童話のヒロインだってそうだ」
「――― 生憎、私は喜多先生のように学がないものでしてね。なんですかそれは。謎かけですか?」
痺れを切らしたように、安藤が苛立った声をあげた。だが喜多はそんな安藤などお構い無しに、自分勝手な口上を垂れ流す。
「綺麗な女は、必ず面倒を起こすってことですよ。色恋沙汰に刃傷沙汰、厄介な事件は美しい女が好きってことだ。もはやセットといってもいい」
この男は自分をからかっているんだろうか。困惑半分、怒り半分と言った気分で、安藤は次の言葉を待つ。
「僕がお見受けしたところ、あの蜂峰にはそういう女としての要素がある。とんでもない事件を巻き起こすように運命付けられている、とでも言いますかね」
「――― ご冗談は程ほどにしてください」
やたらと含みを持たせて喋るものだから、何を言うかと思えば。最後まで聞いて損をした。どうもこの男は物事を劇的に解釈するきらいがある。安藤は付き合いきれないといった様子で、彼の忠告を一蹴した。
だがそれが、まったく心に引っかからなかったと言えば嘘になる。
喜多の話は冗談にせよ、あの娘には確かに得体の知れない空気がまつわっていた。現になぜ、東京の私立からこんな田舎へわざわざ越してきたのだろうと言う疑問が浮上しているのだ。狭い街である。新しい住人がやってくれば噂の一つや二つ立つものなのに、彼女に限ってはそれがない。また親についての情報が一切入ってこないと言うのも、妙と言えば妙だった。
もしや俺は、とんでもない爆弾を抱えてしまったんじゃなかろうか。
「蜂嶺ねぇ……」
安藤の不安をよそに、喜多がのんびりと呟く。
「あの蜂嶺とは、関係あるのかな」
喜多の独白を聞き流しながら、安藤は席を立った。そのまま教室へと向かう。先刻気付いた爆弾が、いつか爆発しないことを心のどこかで祈りながら。