噂は伝染する。
それがたとえ、人の群れから離れようと努力している者だったとしても。
美浦 佑がその話を知ったのは、始業式がもう間もなく始まろうとする頃だった。東校舎の二階にある多目的ホール。そこに備え付けられた円形のベランダに居座った佑は、始業式の参加を自主的に辞退していた。
ベランダと言っても、かなり広いスペースである。アルミの手摺りの下には、様々な植木鉢が所狭しと並べられていた。春ともなれば古今東西のあらゆる花が咲き乱れ、蜜蜂と蝶とが戯れる癒しの空間になるわけだが、夏休みが明けたばかりでは干からびた土が、申し訳程度に鉢を満たしているのみだ。それも佑が先刻取り除いた。今ベランダを占めているのは、空になった鉢植えばかりである。
ざらついた感触の壁に頭を預け、佑は持参した雑誌を意味もなくめくっていた。体育館で始業式を待つ生徒たちの喋り声が、風に乗って此処まで届く。安藤や生徒指導の戸隠が自分を探しに来る気配は、ない。
やがて生徒たちの声が潜まり、辺りは静寂に包まれた。気の抜けた鐘の音が時間を告げる。もう何度となく読み返したバイク雑誌を放り投げると、佑は一つ欠伸をし、ゆったりと目蓋を閉じた。
去っていった夏休みの倦怠が、靄のように体中を満たす。その怠惰な心地よさに身を委ねかけた佑を叱りつけるように、ポケットの携帯電話が盛大なメロディを奏で始めた。白馬にまたがって砂浜を全力疾走する、将軍様のテーマ。
微睡みから引きずり出された佑は、乱暴な手つきで携帯を開いた。着信は………瑛莉?どうせまた、つまんねぇ用件なんだろうな。
『すんごいニュースだよ(☆o☆)!!
なんと、うちのクラスに転校生が来るんだって!』
律儀にメールをチェックした佑を迎えたのは、点滅する絵文字にデコレーションされた幼馴染みからの伝言だった。画面から飛び出さんばかりの電子文字たちからは、瑛莉の興奮がありありと見て取れる。
『しかも超美人なんだってさ(
≧∀≦)b☆
やったね佑、これはチャンスかもよ(σ・∀・)σ??』
とぼけた表情の顔文字と共に、メールはそう締めくくられていた。はいはい、転校生ね。こんなに手の込んだメールをくれて、ご苦労さん。今時小学生でもあるまいし、そんな話題に飛びつくのはお前くらいのもんだろうよ。
転校生だろうが美人だろうが、佑にはどうでもいいことだった。何がチャンスだ。ばーか。画面に向かって小さく呟き、携帯を閉じる。何だか眠気が削がれた。凭れ掛かっていた壁から身を起こすと、佑は一つ伸びをして体をほぐす。
―――――
うん?
佑の視界の端に、ちらりと人影が過ぎった。何気無しに、ベランダの手摺りから下を覗き込む。誰だろう、始業式はとっくの昔に始まってるぞ。
ベランダの下では、ちょっとした花壇が壁に沿って連なっていた。朝早くから登校していた佑が、丹精込めて世話した花壇だ。夏のうちに咲いてしまった花は早々と刈ってしまったが、秋桜や撫子、桔梗などはもう間もなく芽を出そうとしている時期である。手入れの行き届いた花壇には、秋の到来を告げる草花が芽吹きのときを心待ちにしていた。
今はその花壇に沿って、一人の女生徒が歩いている。佑のいる位置からでは顔の判別がつかない。だが明るい栗色の髪には見覚えがなかった。狭い学校のことなので、厭世家の佑でも生徒たちの姿は大体把握している。大体あんなに目立つ髪の色をした娘を、知らないはずがない。
なけなしの佑の脳内リストにも引っかからないということは、もしや彼女が瑛莉の言っていた転校生と言うやつなのだろうか。
佑が思案していたとき、その生徒はふっと足を止めた。校舎の端に位置する花壇の壁を、食い入るように見つめている。そして何を思ったか、レンガで仕切られた花壇に、ひょいと足を踏み入れた。
「なっ……」
佑は反射的に飛び起きて、そのままベランダの手摺りから飛び降りた。折角世話した花壇を荒らされるなんて、冗談じゃない。そこに植えた撫子は、繊細なんだ。迂闊に踏んだ所為で芽が出なくなったら、どうしてくれる?!
ベランダから難なく着地した佑が、女生徒のいた方へと向き直る。だが次の瞬間、佑は自分の眼を疑った。
嘘だろ、おい。
先刻まで確かにいたはずの少女の姿は、煙のように消え失せていた。佑は夢でも見てるかのような気分で、あたりを見回す。校舎の端の曲がり角も覗いてみたが、少女はおろか、猫の子一匹いやしない。
マジかよ。まだ朝だぜ、怪談話には早すぎるだろうが。
体育館から、校長の間延びした声が聞こえてくる。生徒も教師も出払った校舎は、うそ寒い静寂に支配されていた。生き物の息遣い一つ聞こえぬ静けさが、逆に不気味だった。恐怖と言うより、誰かに置いてきぼりにされたような心細さを掻き立てる。
身震い一つしたあと、佑は視線をずらした。つい先刻、少女が足を踏み入れた場処。朝耕したばかりの土には、小さな足跡が二つ、しっかりと刻まれていた。
「――― 転校生……ね、」
足跡の先、女生徒が見つめていた壁に向かって佑が呟いてみる。その言葉が、今しがた起こったばかりの怪異を解き明かす、呪文であるかのように。
潮の香りに満ちた夏の名残の風が、佑の髪をまきあげた。その視線の先では、季節はずれの時計草が、潮風に吹かれながら可憐に花びらを揺らしていた。