「おはよううございます」
 二年三組の担任・安藤あんどう じょうは、職員室に入ったとき一瞬だけどこか後ろめたいような、よそよそしい緊張感が部屋中に走ったのを感じた。
 もっとも、そんな違和感はあっという間に消えてゆく。安藤が自分の席に辿り着く頃には、職員室はいつも通りの和やかで間延びした空間に戻っていた。
「安藤先生、お早うございます」
「おはようございます」
 隣の席に座る住谷すみたに 耕介こうすけ教諭に軽く会釈を返しながら、席の上に鞄を下ろす。そしてあまり落ち着かない様子で、辺りを見回した。
「転校生なら、まだ来ていませんよ」
 挨拶もそこそこにそう言ったのは、向かいの席に座った音楽教師の喜多きだ 豊彦とよひこ氏である。
「やっぱり、流石の安藤先生も気になるんですね」
「当たり前ですよ」
 おざなりに頷き、安藤は壁の時計に眼を遣った。時計の針は、七時四十分を示している。
「遅いですね。初日だし、もう来てもいい頃でしょうが……」
「仕方ないでしょう。なんと言っても変わり者ですからね――――。生徒はおろか、親すら転校の際の挨拶にいらっしゃらなかったんでしょう?」
「まぁ、」
 苦々しげに、安藤が呟く。そして諦めたように椅子を引いて、乱暴に腰を下ろした。
「何でも仕事があって忙しいから、来れないそうですよ。まったく、たいした親だ」
「その生徒の親って、何してるんです?」
 好奇心を擽られたのか、住谷がさり気なく尋ねてきた。
「さぁ、よく知らんのです。音楽家だったか、デザイナーだったか……確か今は、二親とも海外で仕事をしているらしいですよ」
 それを聞いた喜多が、密かに口笛を吹いた。音楽家だろうがデザイナーだろうが、こんなうらぶれた田舎町には相応しくない単語である。このぶんだと、生徒も随分垢抜けた人種に相違ない。口にこそ出さなかったが、彼の顔には間違いなくそう書いてあった。
「生徒とも、一度も顔を合わせなかったんですか」
「ええ。こっちの方は、引越しの支度が忙しいとかで来なかったんです」
「親が親なら……ってとこですかね」
 先が思い遣られますねぇ。人事のように、喜多がお愛想を述べた。
「失礼します」
 丁度その時、職員室に生徒の声が飛び込んできた。吹奏楽部の藤川ふじかわ 水城みずきである。彼はそのまま真っ直ぐに、喜多の元へ歩み寄って来ると、
「喜多先生、部室の鍵を貸していただけますか」
「ああ……しかし、なんに使う?」
 吹奏楽部の朝練は、とっくに始まっていた。校内中に、十一月に控えたアンサンブルコンテストの課題曲が響き渡っている。訝しげに眉を顰めた喜多に向かって、平然と水城が理由を告げた。
さかき河添かわぞえ、それから手塚と俺が、楽譜を忘れたんで」
 喜多は咄嗟に、時計を見た。七時五〇分。もう間もなく、朝練の時間も終わる頃合だ。
「……ほれ、朝練終わったらとっとと返せよ」
 舌打ちのあと、喜多は仕方なさそうに机の引き出しを探った。一番上に入れっぱなしにしておいた音楽準備室の鍵を、水城へ放る。
「――― ありがとうございます」
 あっさり鍵を渡された水城は、拍子抜けしたように眼を瞬いた。そのまま踵を返し、そそくさと出口へ向かう。
 ―――― 珍しいな。いつもなら厭味の一つや二つ、飛んでくる筈なのに。
 速やかに職員室をあとにした水城は、手の中の鍵を見ながら首を傾げた。今日の喜多は妙だった。それから安藤先生も。落ち着かない様子で、ちらちらと時計を何度も見ていたし。何かトラブルでもあったのかな。
「ふっじかわくーんっ!!」
 水城の疑問を吹き飛ばすかのような声が、廊下の向こうから聞こえてきた。水城がぎくりと身を竦ませたのも束の間、声の主は廊下の端から全速力で彼の元へ飛んでくる。
「手づ……」
「ちょっと聞いてよ!さっきそこで亜美沙に逢ったんだけどさ、すんごいんだよ!聞いて驚かないでよ、朝から失神されたら困るからね」
 鍵は無事に貰ってきたよ……そう続けようとした水城の声が、今しがたやってきた手塚てづか 瑛莉えいりの台詞に掻き消された。戸惑う水城などお構いなしに、瑛莉が一気にまくし立てる。
「それがさぁ、あの幽霊屋敷に人が来たんだって!これだけでも大ニュースじゃん?回覧板の大見出し確定じゃん?大体あの家に……」
「手塚。それはあの県道沿いにある一軒家のことか?」
 ヒートアップした瑛莉の頭に水を注ぐように、水城が聞き返した。これで少しは冷静になるかと思ったが、瑛莉は更に興奮した面持ちで、首を縦に振る。
「そう!大正解!!さっすが藤川君、いい勘してるねっ。で、そこに越してきた人なんだけどさ、うちらと同じ年頃の女のコで……これまたすッごい美人なんだって!!」
「うん、それで?」
 熱に浮かされたように力説する瑛莉に、水城が頷き返す。喋っている瑛莉自身も、黙っていれば目鼻立ちのきりっとした、結構な美人だった。だが如何せん、ひと時でも口を噤んでいられない厄介な性分が、彼女を『美少女』というカテゴリーからはじき出しているのである。
「それで、じゃないよ!あの亜美沙が美人だって言うんだよ?」
「それは確かに珍しいな」
「だから期待も膨らむってわけ。逢ってみたいなぁ、転校生かな?ねぇ、あの洋館に美少女転校生が住み付くって、なんだかドラマっぽくない?事件が始まる前触れって感じ!」
「うんうん」
 適度に相槌を入れながら、水城は思いがけない情報を自分なりに分析し始めた。瑛莉のお喋りは、一旦火がついてしまうと鎮火するのに多大な労力を要する代物であったが、新たな情報を得るにはもってこいだ。よほど馬鹿げた話題(七割くらいはそんな話題ばかりだが)でもない限り、耳を傾ける価値はある。
 ―――― あの洋館に……ね。それと、転校生か。
 先刻眼にした、喜多の落ち着かない様子が頭を過ぎる。もしかすると、何か関係があるのかもしれない。
 頭の一部を酷く冷静に回転させながら、水城はかしましい瑛莉を連れて、音楽室へ向かっていった。




***********  ************  *************


 潮風の匂いが、今日はいつもと違っているように感じられた。
 懐かしく、昔の記憶を喚起させるような、セピア色の香り。
 さかき 来々ららは、反射的に子ども時代のある記憶を思い起こしていた。
 あれは……五つくらい、だったろうか。
 暮れなずむ公園の片隅。錆び付いたぶらんこに揺れていた女の子。
 白いブラウスがとてもよく似合う、フランス人形みたいな女の子。
 オレンジ色に染まったブラウスが、少しだけ眩しかった。
 わたしが思わず眼を細めると、その子はぶらんこから降りて、こっちへやって来た。
 笑っていたような気がする。
 それ以上の記憶は、どうしても思い出せない。
 
 不意に、白いものが視界を遮った。慌てて顔を上げる。仏頂面の水城が、課題曲の楽譜を差し出していた。
「貰ってきたよ。さっさと始めよう……ま、あんまり時間はないけどね」
 水城の口調に、急かされるような感じを受け取った来々は、慌てて立ち上がる。
「そう言えば……」
 自らも楽譜を広げた水城が、ぼそりと呟く。
「転校生が、来るらしいよ」
 脈絡のない台詞。だがその一言は、泉のように湧き出てきた来々の予感を激しく揺さぶった。
 波の音、かもめの鳴き声、オレンジ色の公園。

 思い出の中の少女は、あの時なんと、言ったのだろうか?