県道沿いのあの洋館に、住人がやってきたらしい。
 早乙女さおとめ 亜美沙あみさがそれに気付いたのは、夏休みが明けたばかりの九月一日の早朝のことだった。何時ものように朝練のため早起きし、人の気配のない道を歩いていた時のことだ。
 誰もいない、まだ完全に目覚めていない道を歩くのは好きだ。見慣れた風景が、朝の空気によって浄化され、新しい世界へと生まれ変わってゆく時間。このときばかりは、田舎くさい海辺の街が、誰も見たことのない素晴らしい世界のように思えてしまう。
 天気がいい日は尚更だった。きつい潮の香りを含んだ風と共に、碧いはずの海が、金色の輝きを帯びて朝を迎える。まあ、そんな光景が拝めるのは、日の出が遅くなった冬の朝に限るんだけど。
 今朝は生憎の曇り空であった。だが遠くの空が明るく霞んでいたから、今日はきっと晴れるだろう。暑くなりそうだ。
 久方ぶりに通した制服の半袖からのぞく二の腕をこすりながら、亜美沙が小走りに県道を横切ってゆく。曇っている所為か、少し肌寒い。この調子なのに昼になったらいやになるほど暑くなるんだから、まったく理不尽にもほどがあると考えていた頃、何の気なしに例の洋館を、ひょいと見上げてみた。
 この洋館の説明を忘れていた。
 南に海を、北に極めて低い山地を擁する洗ヶ崎あらいがさきには、丘とも森ともつかない山の麓に沿って、亜美沙が歩く県道が敷かれていた。その道路が西側に差し掛かった頃、鬱蒼とした森に囲まれた高台が見えてくる。その上にぽつんと忘れ去られたように建っているのが、くだんの洋館だ。
 上品な色合いの外壁を、ちょっと気取った雰囲気の丸窓が飾っている。タイル張りのバルコニーや屋根の装飾などにはネオルネサンスの香りが漂っていて、たいへんにモダンな建物ではあるのだが、この洋館ははっきり言ってこの街の異物、もしくは異空間だった。
 そもそもしみったれた田舎町に、こんな洒落た洋館があるだけで、無駄に人目を引く。加えて長いこと誰も棲んでいない、その上以前誰が住んでいたのかすら定かでないとくれば、妙な噂話の格好の餌食になるに十分だ。
 昔から、大人たちがこの洋館の話題を口にすることはなかった。亜美沙もこの洋館について、聞いてはいけないという暗黙のルールがあることを感じ取っていた。見てはならないもの、触れてはならないもの。そういったもの特有の後ろめたさが、この洋館にはまつわっていたのである。
 そうして臭いものに蓋をして見ない振りをしているうちに、子どもたちの手によって、この洋館はさらに臭いもの、怪奇が匂うものへと祭り上げられていった。
 亜美沙が小学生の時分に聞いたものでも、両手の指の数を越すこの洋館の噂が存在していた。誰も棲んでない屋敷の二階の窓に、青白い光がよぎっただの、夜中凄まじい物音がしただの、応接間にあるピアノ(しかし応接室にピアノがあることなど、何故知っているのだろう。あの屋敷に、入ったこともないくせに!)が夕暮れになると独りでに鳴り始めるだの、あそこには怨霊が取り付いている所為で取り壊しが出来ないだの、考え付く限りの怪奇の流言が跳びかったものだった。
 中でも傑作だったのが、小四の夏に聞いた逸話である。クラスの男子が肝試しに行くといって、この洋館を訪れたことがあったらしい。潜入に成功し、裏庭に回ったとき、真暗だった屋敷の中から世にも美しい少女が現われて、みとれているうちに、どこからともなく右ストレートのパンチと、強烈な回し蹴りがお見舞いされ、恐怖のうちに逃げ帰ったという笑い話。
 まるで『ブレーメンの音楽隊』である。情けないことこの上ない。そうして近所の悪ガキだった洟垂れ小僧たちは中二になった現在、学校きっての不良になってでかいツラをしている。
 そんなことはさておき、確かに曰くありげな建物ではある。しかし近所に住む亜美沙は、中学に上がった今でも妖怪変化の類(ではないか。この場合、幽霊のほうが正しいのか?)に出くわしたことなどなかった。そんなものがいるなら是非ともお目にかかりたいものだ。そしたらTVの怪奇番組かなんかに出演してもらって、がっぽり儲けてやるというのに。
 そんな下心があったのかは定かでないが、とにかく亜美沙はその朝、何の気なしに洋館の二階を振り仰いだのである。
 白い額縁を思わせる出窓が、亜美沙が来るのを待っていたかのように開かれた。ひゅうっと音を立てて、涼やかな朝の風が窓の中に舞い込んでゆく。繊細なレースのカーテンが風に揺れ、その影から一人の少女がついと顔を覗かせた。
 亜美沙の足が止まる。吸い寄せられるかのように、彼女の視線が少女を捕えた。
 カーテンの隙間から見えた少女は、遠目から見ても美しいということが窺えた。肩下で揃えたまっすぐな髪は、微かな陽の光を浴びて、艶やかなきらめきを放っている。気だるげに伏せられた睫毛は長く、透けるほど白い肌に金色の影を落としていた。淡く色づいた口唇は薔薇色に染まり、微睡みの中で夢見るように微笑んでいる。
 そのとき亜美沙の脳裏には、幼い頃読んだ舶来ものの絵本の挿絵が浮かんでいた。異国の国の、異国のお姫様。金の髪をもつ彼女たちは皆、いちように美しく、華やかに輝いていた。
 少女の姿は、遠く離れていた。だが亜美沙には、その類稀な美しさが望遠鏡でクローズアップされたかのように、はっきりと見て取れた。
 奇跡に近いその現象に呆然としていると、向こうも亜美沙に気付いたらしく、やや眠たげな瞳のままにっこりと笑って見せた。丁度その時雲が割れ、その隙間から眩いばかりの朝日が零れて彼女の顔を照らし出す。
 まさに、天啓が下ったと言うところか。
 それはお姫様と形容するには生温い……気高き美神ミューズの微笑みだった。