大つごもりの夜





 あの家へと向かう道を歩いていると、決まって思い出す光景があった。雪が降り積もった道にぽつねんと佇む簡素なバス停。トタン板の屋根に守られた錆付いたベンチは、中学生の頃何度となく眼にしたものだ。道行く中学生の群れに在りし日の面影を重ねるほど、友香ともかは感傷的な性格の持ち主ではない。それでも思い出さずにいられないのはきっと、このバス停の何気なさに起因しているのだとふと気付く。
 酷く暑い日だった。陽が少し傾き、オレンジが滲みかけた青空にひぐらしの物哀しい鳴き声が吸い込まれていた。セーラーの夏服を纏い、漲る生命の息吹を思わせる強い日差しの中、ただ黙って山の彼方を見つめていた少女。あまりの暑さに耐えかねて、眼に映る景色すべてが溶け出し、陽炎の中で揺らいでいた夏の日。それでもバス停の前に立ち尽くす彼女は汗一つ浮かべていなかった。時折思い出したように吹きぬける乾いた風の如く涼やかに、けれど空虚に投げ出された眼差しは、何処を見ていたのだろうか。
 捨て猫を拾っただの、同級生に告白されただの、今思い出すと恥ずかしい全国制覇への誓いを立てただの、このバス停で起きた事件は事欠かない。彼女にまつわる逸話もまた然り。けれども此処に立って喚起されるのは、そんな中学時代の思い出ではなく、ましてや関東大会で劇的な優勝を果たした記憶でもなかった。不意に見たいつかの彼女の眼差しは、記憶の奥から掬い上げられ零れるように、友香の目蓋の裏を鮮やかに染め上げていく。それがたとえ今のように、ほの暗い夜闇の底で、ぼんやりと雪の光が灯る師走の暮れであったとしても。反射的に浮かぶ彼女の残像は、雪でよそおった冬の日でさえ、蜩の声を思い出させるほど鮮明だった。
 昨日から降ったり止んだりを繰り返す水っぽい雪が、友香の頬や髪を僅かに湿らせて消えてゆく。何気なく覗き込んだ腕時計は、八時半を示していた。約束の時間を大幅に上回っている。
 今宵友香は、中学時代の恩師に招かれて年越しパーティに参加することになっていた。集うは藤原中学元女子バレー部の面々だ。友香たちの女バレと言えば、関東の片隅に位置する辺鄙な田舎町から、バレーの全国大会にまで出場する言う奇跡を成し遂げた伝説的存在である。
 もっとも、山間の田舎町で燻ったまま中学時代を終えようとしていた彼女たちをそこまで躍進させたのは、今から訪れる恩師の指導力があったからに他ならない。何時も飄々ひょうひょうと構えていていながら、鋭い洞察力によって彼女たちの素質を見抜いた影の天才。だが彼を思い出すときは何時だって、どこか眠そうに壁際に寄りかかったまま遠くをじっと見つめている姿ばかりだ。マネージャーだった友香は彼と接する機会が他のメンバーより多かったにもかかわらず、そんな何気ない思い出の一瞬しか捉えられないでいた。
 やがて目的の家の玄関先へと辿り着いた時、家の中からかしましい笑い声と嬌声が聞こえてきた。雪夜の静寂を破り裂くその賑やかさは、宴が始まっていることを物語っていた。
 今しがたけたたましく笑ったのは雪音だろうか。それに続く不明瞭な発音で何事かをわめいたのは後輩の生田だろう。そしてとりなしに入った落ち着きのある声はキャプテンの真奈………。
 友香のかじかんだ指先が、呼び鈴を押すのを躊躇った。中学時代、幾度となく繰り返された日常の一場面が、友香を埋葬された追憶へと再び引きずりこんでゆく。昨日の続きのようにはしゃぎまわる仲間たちの声が、かつて中学生であった頃の声に同調する。駒落としで再現される追憶のありようが、彼女を僅かに臆病にさせた。自分は此処に来るべきではなかったのかもしれないという懐疑が、後味の悪い珈琲のように広がっていく。突如湧き上がってきた自己嫌悪にも似た蟠りに口唇をかみ締めた時、不意に視界が明るく開けた。
「―――圷?なんだ、来てたんじゃないか」
 目の前を塞いでいた引き戸が開き、そこからひょっこりと顔を覗かせたのはこの家の主である青木文也ふみやだった。今宵の宴の主催者であり、藤原中女子バレー部の外部コーチとして友香たちを全国へと導いた青年。
「そんなとこに突っ立ってないで、上がれよ。寒いだろ、そこじゃ」
「………お邪魔します」
 見た目といい口調といい、五年前から時が止まってしまったかのような彼に、危うく昔のタメ口をきいてしまうところだった。だがこの五年間で身につけた分別が、淡雪のように降り積もった時間の隔たりが、それをすんでのところで押し留めた。
文也の顔を見たとたん、込み上げてきた違和感が何なのかをなんとなく心の中で探った。友香はぎこちなく上がり框を登って奥の座敷へと続く廊下を渡っていく。宴の声は彼女の到着に気付くことなく、楽しげに響いていた。



「あっ、友香じゃん!」
「久しぶり〜!!すっかり垢抜けちゃって、まぁ」
「友香、相変わらずデコ広いねぇ〜」
「……英架えいかも相変わらず歯が出てるね。歯に青海苔くっついてるよ」
「―――嘘ッ、」
「嘘だよ」 
 座敷に着くと、様々な声が友香を迎え入れた。中には既に酔っている者も居て身も蓋もない憎まれ口を早々に寄越してくる。それを適当にあしらうと、友香は開いている座布団の上に腰を下ろした。
「さーて、友香も来たことだし、改めて祝い直しますか!」
「もういいって……。人が来るたびに乾杯してたんじゃきりがないよ、由花」
「あれ、けどこれで全員ですよね、コーチ?」
 コップを掲げ乾杯する気満々の英架が、今しがた上座に腰を下ろした文也に問いかけた。
「まぁ……全員といえば全員かな」
「なら問題無いっしょ。それじゃあ気を取り直して、かんぱーい!!」
 ほろ酔い気分の雪音につられて、幾人かが遠慮がちに手元のコップを掲げた。友香も、隣に座る真奈から注いでもらったビールのグラスを軽く持ち上げた。
 宴の席をざっと見渡すと、当時の面々が全員揃っているわけではないことに気づかされた。当然だろう。セッターだった恭子は地方の県立大に通っていてとても帰省できる状況ではないのを始め、地元に残らなかった者たちはこの席に顔を見せていなかった。東京の大学に通う英架や真奈がここにいるのが不思議なくらいなのだ。
「ひーちゃん……悠馬ゆうまくんも連れてきたんだ……」
 昔日の同胞たちが不揃いに欠けている最中、向かいの席に座るチームメイトに向かって、友香はかすかに苦笑した。
「まだお母さんに甘えたい盛りだもんねー」
「旦那の両親が先週から旅行に行っちゃっててね。面倒見る人がいないから連れてきちゃった」
 幼い男の子を抱えた元リベロの紘実ひろみが、なんでもないといった風情でさらりと説明する。高校卒業直前に出産し、電撃結婚を果たしたというのは風の噂で聞いていたし、昨年の春こうして集まった時にも子供を連れて来ていたので別段驚くことも無かったのだが、さすがに幼い子供まで連れてくるとは予想していなかった。
 大人たちの席に放り込まれて大丈夫なのだろうか。僅かな不安に応じるが如く悠馬は今にも泣き出しそうに顔を歪めている。一方紘実の方はそれに気付いてもけろりとしていた。この一見大胆にも思えるほどの動じなさは中学時代のまま、母親になった今も変わらないようだ。
「せっかくの年越しにママがいないのは寂しいしねぇ」
「よーしよし、いい子だから泣かないでねー」
「……英架、悠馬くんが脅えてるよ……」
 英架が顔を近づけたとたん泣き始めた悠馬を抱きなおすと、紘実はさりげなく輪の中から退いて我が子をあやしはじめた。
 それを見届けた後、友香は他の友人たちの近況報告に耳を傾けた。中学の頃最も親しくしていた由花と、リベロの一人だった麻子はM橋市にある専門学校に通っているといい、パワー重視のライトアタッカーとして活躍した雪音は、山の向こうに佇むゲレンデリゾートのホテル従業員になっていた。聞くところによると、後輩の名越なごえが新人社員としてこの春入社してきたらしい。それを知った老舗旅館の跡取り娘である生田は、闘志を燃やして旅館の女将になる手ほどきを受けていると話した。救急医療担当だった怜は、養護教員になるため地方の短大に通っているので今回は不在だ。普通の四大に通っているのは真奈と英架、そしてあの追憶の少女のみであった。
「そういえば榛名はるなは今どうしているんですか?」
 己の身の上話をてんでばらばらに喋り始める仲間たちから逃れるように、友香が文也に尋ねた。
「ああ、あいつか?確か関西の大学に通ってるって聞いたけど」
「……榛名、結局京都に住み着いちゃったんだ」
「いや、京都ではないんだ。その辺は俺もよく知らねーんだよ」
 文也は藤原中女子バレー部のコーチであると同時に、友香たちの同級生である追憶の少女の従兄でもあった。天宮榛名―――藤中女子バレー部を全国大会と言う栄光へと導いた、伝説的な名アタッカー。流星の如く現れ、当時の中学バレー界を震撼せしめたその名前は、おそらく今も語り継がれているはずだ。全国で奇しくも敗退したのち、数多の高校バレーの強豪たちが血眼になって彼女を勧誘したが、それに応じることなくバレーボールの世界から忽然と姿を消した幻の少女。
 半ば神格化されてしまった彼女の実態は、傲岸不遜を絵に描いたように無愛想で、愛嬌の無い、孤高の一匹狼じみた娘だった。馴れ合いや媚と言った、中学生特有の甘さはまるきり皆無で、その天衣無縫さは少女と言うより少年に近かったかもしれない。その言動にどれだけ手こずったことか。その上バレーの技術、特に重力を無視していますと言わんばかりのジャンプ力を駆使したアタックの数々は、殆ど冗談ともつかぬような神業・離れ業ばかりで、まさにスポコン漫画の主人公を地で行くような奴だった。
 天性の素質に恵まれた彼女は、何時だって自信に満ちた強い光を双眸に宿していた。決して消えることの無い聖火のように。だがあのバス停に向かい合う時、その印象は音を立てて崩れていくのだ。思えばあの時偶然眼にした彼女の眼差しは、友香が始めて知った彼女の淡い絶望だったのかもしれない。
「なんでも理系の学科にいるらしいぜ。俺も直接聞いたわけじゃないんだけど」
 一人熱燗のお猪口を傾けながら文也が呟いた。榛名が引退したあと、母親の仕事の都合により、京都の高校へ進学したのは知っていたが、彼女が歩んだその先の物語を知る者はいなかった。少なくとも、この場処には。
「それ、誰に聞いたんです?」
襟原智世えりはらともよだよ。覚えてるか、有馬中のアタッカーだった」
「―――襟原が?」
 突如現れた予期せぬ名前に、そこに集った一堂が一斉に眼を丸くした。襟原と言えば、かつて榛名とアタッカーとしての覇を競いあった人物ではないか。
「由花、知ってた?」
「ううん、全然……だって卒業してから一回も連絡とってないし」
 卒業してから一度も連絡を取っていない。それは榛名の親友だった由花に限った話ではなかった。地元に残った友香ですら、卒業してから由花と連絡をとることは稀で、たまに顔を合わせてもそのうち遊べたらいいね、と虚ろな約束を交わすのが関の山だった。そしてそれはおそらく、此処に集った者たちすべてに当てはまることだ。あるいはこんな機会を設けない限り、ここにいる何人かとはきっとこうして共に宴の席に着くことすらなかったかもしれない。このうちの何人かに、卒業してから何度かメールを出したこともあったが、アドレス不在のため送り返されたものも少なくなかった。繋がらない電話番号のダイヤルを回すような、空虚なメッセージが届くことは永遠にない。
 かつて少女だった頃、絶対だと信じていた仲間たちの連帯。永遠が続くと本気で思えるほど純粋ではなかったが、それでもどこかで期待していたのだ。全国と言う巨大な怪物に立ち向かった経験と、同じ時間を過ごしたという事実が、決して切れることのない絆と言う幻想を生み出した。それが時間の前では如何に無力に色褪せていくかなどとは知らずに。
 いや、そんなことはずっと前から知っていたような気がする。ただ確かな手触りを感じぬまま、それらが降り積もる時間の中に埋没してゆくのを見つめていたのだ。そしてあるときふと気付かされる。かつて信じていた何かが時間の重みの中で静かに風化していたのを。喪ったわけではない絆や連帯は、在りし日のまま繋がる相手を見出せずに、ゆっくりとそのありようを変貌させてゆく。
 友香は何気なくビールのグラスに口をつけた。口の中に広がる苦さはあまり好きではない。もはや少女とは呼べなくなってしまった仲間たちの中で、榛名だけはいつまでも少女の姿を保っている。卒業以来一度も逢っていないためなのだが、彼女の存在はあの記憶にある空疎で儚げな眼差しと相まって、今掘り起こす追憶の亡骸をさらに苦いものにしている気がした。
 取り留めのない感傷が去来したのはきっと、アルコールの所為だなと思っていたとき、おもむろに紘実が立ち上がって暇乞いをした。彼女の腕の中では悠馬がうとうとと微睡んでいる。その稚い姿と共に、一同は紘実を見送った。
「コーチ、ひーちゃんに先越されちゃいましたね」
 座敷のガラス窓から、雪と闇の彼方に溶け込んでゆく紘実の後ろ姿を見届けた真奈が冗談めかしてそう言った。
「コーチ、未だ結婚しないんですか?」
「ばぁーか、そんな暇ねーよ。こんな田舎じゃ出逢いも無いし」
「そんなこと言って、ホントはいるんじゃないですか?可愛い彼女が」
 俄かに若き娘たちの話題の的にされた文也は、どこか逃げるような口調でそれらを突き放した。
「もしかして、銀ちゃんに操立てでもしてるんじゃないの?」
 様々な質問が飛び交う合間に、突拍子もないことを呟いたのは応援団長の英架だ。銀ちゃんとは藤原中に赴任してきた体育教師であり、友香たちが三年生の時に女子バレー部の顧問に着任した吾妻銀次あずまぎんじのことである。そしてまた、彼と文也が高校時代からの腐れ縁であることはつとに有名な話であった。
「あー……確かに文ちゃんと銀ちゃんはラブラブだったもんねぇ」
「コーチ……まさかそんな人だったとは……」
「おいおいちょっと待て。要らん誤解を招くような発言をするな小林よ」
 この攻撃はさすがに予期してなかったと見えて、文也が対処しきれないというように眼を点にした。その狼狽ぶりに、昔も感じた悪戯心が不意に首をもたげる。
「あっ、なんなら私が恋人候補に名乗り出ますよ!」
「教え子に手ぇだすのはいくら何でもまずいだろう」
「そんなこと言って、怜といい感じだったくせに」
「いや、あれは竹下が……」
「それにもう中学生じゃないからいいんじゃないですか?手ぇ出しても犯罪にはなりませんよ」
 どこか試すようにそう言い募った友香の言葉に、勘弁してくれよー、と文也が情けない声をあげた。その様子が可笑しくて、同時に切なくもあった。仲間たちとの絆が劣化してゆくなか、唯一変わらないでそこにあるもの。飄々とした瞳で彼女たちを見据え、時におどけた素振りを垣間見せる青年だけが、あの時のまま彼女の目の前にいる。
 その声に、文ちゃん、と呼びかけてしまいそうになった。それが言葉にならずに、咽喉の奥で静かに消え失せてゆくのを感じる。中学生だった頃の真似事で、彼をからかうことは出来た。だがこの声がもう一度、彼を文ちゃんと言う言葉を紡ぎだすことはないのだと気付かされた。
 榛名―――。ふと込み上げてきた違和感の正体を、やっと捉えることができた。そして少女の追憶が、あのバス停に佇んだ姿である理由も。
 あんたは知っていたんだね。こんな日が来る前から。
 彼女の瞳は確かに恐れを滲ませていた。どこか遠く、中学生だった自分が思いもよらないほど彼方に向かっていた眼差しは確かに、いつか訪れる未来の残酷さを捉えていた。








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