やがて夜も更け始め、その闇を一段と濃くしてゆく。他愛も無いお喋りに興じたまま時計を見遣ると、十一時二十分を回っていた。
「さて……そろそろ出掛けるか?」
文也がそう言いつつ大儀そうに立ち上がる。それを待っていたかのように、この場に集った一堂がばらばらと身支度を始めた。今年も残すところあと四十分。彼らが目指すは、中学校の裏手にある神社だった。
観光地として整備された山向こうにある寺での除夜の鐘つきや、町興しの一環として年越しの花火を打ち上げるダムなど、この辺り一帯の年末イベントはいくつも見受けられる。だが地元住民が好んで初詣に立ち寄るのは、裏山にひっそりと建つ松永神社であった。鬱蒼と生い茂る木々の群れのなか、精霊にでも遭遇しそうな雰囲気を醸し出す彼の場処は、まさに聖域と呼ぶに相応しい威厳を放っていた。
酔いつぶれた何人かを残して、皆で揃って青木家を後にする。外に出たとたん、乾いた冷気が友香の頬に吹き付けた。宵闇の夜天を、けぶるような紫の大気が覆っている。見上げた空に星はなく、僅かに零した吐息が雪のごとく真っ白に結露して消えていった。
「あれっ……?!ねぇ、あそこにいるの怜じゃない?」
いち早く雪道を歩き出していた由花が、突然闇の奥を指差した。半ば氷のように固く凍てついた雪の上を慎重に歩いてくる人影。橙色の街灯に照らし出された白い顔は、今宵集まると思っていなかった人物のものだった。
「怜?うそ、何時帰ってきたの?!」
「ついさっき……道路が込んでてさ、本当はちゃんと時間通りにくるつもりだったんだけど」
そう言ってマフラーに顔を埋めた怜は、照れくさそうに微笑った。女バレ時代、ぶっきらぼうに怪我人の手当てをしていた少女とは思えぬほど、柔らかな微笑だった。
「怜も来る?松永神社へ、今年最後のお参りに」
「勿論。そうじゃないと来た甲斐がないもの」
「れーいー。今までどうしてたんだよー!!去年の集まりにも来なかったから超寂しかったんだぞー!!薄情者めぇ」
「……雪音、相当酔ってない?」
怜の到着で一段と賑やかさを増した集団が、冬の小道をぞろぞろと歩いていく。友香は少し後方で彼女たちを見つめながら、ゆっくりとその後についていった。
「しっかし……お前らの煩さはまったく変わってねーなぁ」
不意に横から声が響いて、友香は顔を上げた。気付かないうちに、文也が肩を並べて歩いていた。
「そうですか?昔ほど騒がしくないと思いますけど」
「そうかぁ?まぁ、小林あたりは幼稚園に入って社会の厳しさを知ったガキみたいになってるけどな」
その評に友香は思わず苦笑した。応援団長だった英架が、クスリでもキメてるんじゃないかと思うほどの爆声を体育館中に轟かせていたのを思い出す。あの声は強烈だった。傍で聞いていると暫く鼓膜が正常に機能してくれなくなるほどに。だが今日再開した英架に、あの時の野生の獣じみた様相はもはや微塵もなかった気がする。
「怜も、ちょっと変わりましたよね」
「ああ、なんて言うか……丸くなった」
「小指を落として堅気になったやくざみたいに?」
「お前……それは言いすぎだろ」
やや呆れたように零した文也の溜息が、ぼんやりと白い霧になって散っていく。その横顔が雪の灯に映し出されて、なんとなく消え入りそうだなと、一抹の不安を抱かずにはられなかった。
「あー…こうしてると何だな。ベンチ時代に戻ったみたいだ」
不意に胸を付く言葉を聞いて、友香は返す言葉を喪った。かつてこうして肩を並べて、一歩離れた場処から仲間たちを見守る情景。状況は確かに同じなのに、気持ちだけがあの頃とは異質のものになっている。
「……感傷ですか?コーチらしくもない」
「圷は相変わらず手厳しいなぁ。いいじゃないか、ちょっとくらい昔を回想したって」
「回想……ねぇ。それで何かが得られるとは、とても」
「―――ほんとリアリストなのな、お前。もう少しロマンを持て、ロマンを」
「ロマンを持つのは一握りの男だけで十分です。人類みんながロマン主義になれるほど、世間様は甘くありませんよ」
これ以上ないくらい事務的な口調で切り返すと、文也が顔を引きつらせて黙り込んだ。怒ったかな、と少しばかり後悔の念が湧かないでもなかったが、あえて何も言わないままひたすら歩くことに気を向けることにした。
変わってしまったものを、指の先からこぼれてしまった記憶を、今更取り戻そうとは思わない。時間という風に晒されて劣化した絆を、再び繋げようとも思わない。それは使う者のなくなった番号にダイヤルを回すようなものだ。そんなことをしても返ってくるのは、無機質に強張った機械的な何かだけ。
ただ、こうして文也と言葉を交わしていると、それが嘘のように思えてくるから厄介だ。感傷は人並みに持ち合わせているつもりだが、それに溺れるなんて真っ平だった。しかし彼の存在そのものが彼女の感傷を徒に肥大させていく気がしてならない。追憶の彼方から呼び起こされる榛名の姿もまた然りだ。
「……こうして、お前らと酒飲んだり、初詣に行くなんて考えてもみなかった」
不意に呟いた声は、友香に向けられていたのだろうか。独り言ともつかぬ言葉を吐いた文也の目は、どこか虚空を見据えたまま動かないでいる。
「五年もコーチやってるとさ、段々印象が希薄になっていくやつらがいるんだよな。そう言うやつらは大抵、 引退と同時に俺の前からあっさり姿を消しちまう。お前らもそんな感じなんだろうな、って何時も思ってた。ただ、榛名の同級だったから何となく気にかかってただけで。今日こんな集まりをしたのもただの気まぐれなんだけど、まさかこんなに集まるとは思ってなかった。ちょっと感激した」
「―――年の所為じゃないですか、それ?」
「……そこまできっぱり言われると却って清々しいな……。確かに年の所為もあるかもなぁ。けど、年取るのも悪くないぜ」
「どうしてです?」
「年取らなきゃ、お前らと酒飲んだり出来ないだろうが」
「……そんな理由、」
言いかけて、口を噤んだ。うっすらと積もった雪が目蓋に落ちかかる。その雪越しに見た文也の瞳は、あの頃のまま友香を見つめていた。その視線が呪縛のように、友香の胸を締め付けていく。
「私は、」
友香はゆるやかにその瞳から視線をはずすと、再び雪の舞う夜天を見上げた。除夜の鐘は遠すぎて聞こえない。雪音や怜、由花たちの歓声も冬の夜の彼方へと遠のいてしまっている。
「今回、こんな企画をしてくれて嬉しかったと思ってますよ。時間が経ってもみんなと逢える機会を下さったんですから」
彼女の瞳に星は映らない。その代わりに再び文也と向かい合った。友香の記憶にある文也と目の前の青年が重なることに、ためらいを感じることはもうなかった。
「今度は、二人で飲みに行きません?色々話したいこともあるし」
「いや、だからそれはまずいだろ?」
「変な意味じゃないですって。年取ってよかったなーって思わせてくださいよ、コーチ」
軽口の中に込めるのは、限りない懐かしさと、未来へ繋ぐ希望。一度風化した絆は元には戻らないけれど、また新しい絆を紡ぎなおせばいいのだ。その糸たちがいくつも連なって、何度でも生まれ変わっていくのならば、時間の中に埋もれていくのも悪くないかもしれない。
その絆たちが広がっていく明日を思いながら見上げた夜空に、鮮やかな火炎の花が咲いて散った。続いて轟く、腹の底に響く爆音。
「―――年が明けちまったみたいだ」
何気なく腕時計を覗き込んだ文也が独りごちた。午前零時を回った山沿いの町に、新年を祝う花火の音が木霊する。
「あけましておめでとう、文ちゃん。今年もよろしくお願いします」
かつて呼んだ気持ちとはまったく違った響きを込めて、友香が彼の名を口にした。新たなる日々が、この空の下で再び紡がれていくのだろう。そんな祈りにも似た期待を感じながら、友香は彼の左手をそっと握り締めた。
戻る