闇が、此方を見ている。
月明かりさえ飲み込む漆黒の帳は、今しがた歩いてきた道をも消し去った。
得体の知れない闇が、よそ者である自分を嘲笑うかのように夜の底に沈殿している。
いや、闇ではない。この闇は彼岸と此岸を隔てる境界に過ぎぬ。
ならば此方を見ているのは、そこに棲まう者達の魂ではないのか。
そう云えば……。
ふと思い出した記憶の残滓に気をとられ、清子は歩みを止めた。
盂蘭盆を過ぎた夏の宵には、人ならぬものの魂が集まりやすいと誰かが云ってなかっただろうか。
気紛れに思い出したのも束の間、前を歩く従妹に急かされて、清子はその奇妙な記憶を打ち消した。幼い従妹 に手を引かれ乍ら、神社へと続く石畳の道を歩いてゆく。
母方の実家の傍にある神社で催される縁日に、歳の離れた従妹を連れて訪れる約束をしたのは、昨夜のことだ。母のものだと云う古い浴衣は、樟脳のいくぶん時代がかった匂いを纏わせていた。履きなれない下駄で歩く夜道は、自分が歩いているような気がせず心許ない。何時になく闇を恐れてしまうのは、屹度その所為だ。
いや、何時もと違うのは何も自分ばかりではない。
普段は鬱蒼とした気味の悪い佇まいをしているこの神社も、今宵は華やいだ賑わいを見せている。いつもはうら寂しいだけの表参道には屋台が並び、鬼灯色の提燈は数珠繋ぎになってあたりを照らしていた。陽が落ちてから間もないと云うのに、屋台街には既に多くの地元民がくりだしていた。祖母らしき老婆の手を引いたまだ稚い少年が、清子の前を横切ってゆく。
それだけならば、何も不安になることなど無いと云うのに。
ならば、自分が怖れているのは何だ。
ぼんやりとした疑念に囚われ乍ら、清子たちは人混みに流されるまま、屋台をひとつずつ見てまわった。
やわらかな色合いの屋台の燈が、訪れる人々の頬をほんのり紅く染め上げる。
やがて夜の空気までもが燈をともしたように明るくなった。林檎飴の艶を帯びた明るさだ。
綿飴の店からはあめいろの甘い匂いが漂い、簡素なつくりの射的場からは男の子たちの歓声が聞こえてくる。
カキ氷屋の暖簾がはためき、其の隣に店を構えるラムネ売りの盥からは氷と瓶がかち合う涼しげな音が響いていた。
少し遠くから、縁日特有の祭囃子が聞こえてくる。
すれ違う人々が交わす言葉は地方独特の方言も手伝って、まるで異国の町に流れ着いたかのような錯覚を覚えてしまう。
馴染みのない世界に身を浸していると、ふいに従妹に浴衣の袖を掴まれた。
彼女が指した先には、粗末な水槽を泳ぎまわる金魚が居た。
一回だけならやってもいいよと云って、清子は金魚を掬うための網を買い求めた。
従妹が嬉々とし乍ら、水槽の中の金魚を追いかけ始める。
神妙な顔つきで、従妹がある一匹に狙いを定めた。薄紙を水に浸け、掬い上げる。紅い、絹繻子の帯を思わせる尾びれをつうッとひらめかせて、小さな魚がその罠をすり抜けていった。
残念だったね、
屋台の旦那に云われて、幼い従妹はそれでお仕舞いということに気づいたらしい。一匹も捕まえられなかった悔しさを一身にまくし立てた。
清子が苦労してそれを宥めようとした時、祭囃子に混じって澄んだ鈴の音が聞こえてきた。
今の音、
思わず呟いたときには、その余韻さえ消えてしまっている。
空耳だろうか。
隣の声さえ霞むほどの喧騒の中にあって、鈴の音だけ聞こえる筈もない。
清子は自分の思い違いに首をかしげた。傍らでは従妹がまだ、駄々をこねている。
こら、そんな我が儘を云う悪い子は、イヅナ様に頭から喰われちまうぞ。
イヅナ様って、
なァに、ここいらに伝わる昔話さ。此の神社に棲まう、人ならぬものの、な。
人ならぬもの、
裸電球の淡く、それでいて懐かしい光のもとで揺らめく水面が、清子の頬におぼろな影を描いては消えていった。
ほら、この神社の入り口に、妙な蔵があるだろう。
その昔、ここいらで暴れていた悪い鬼がいてな。嵐を呼んだり日照りを起こしたり、そりゃあ大変だったそうだ。
そんな時な、村にやってきた霊力の高い偉い巫女さんが、その鬼を退治してあの蔵に閉じ込めたんだと。
その巫女さんはすぐに村を出て行っちまったが、時々身代わりのヨウコが村にやってくるんだ。
ヨウコってなんですか、
だから、人ならぬものだよ。
闇の眷属ってとこかな、
今晩みたいな夏の宵に、人の魂を惑わすんだ。
お嬢ちゃんも気をつけな、
屋台の旦那は人のいい笑みを浮かべ乍ら、従妹に一匹だけ金魚の入った袋を手渡した。おまけだよ、その代わり大事に育てろよ。
清子は丁寧に礼を述べると、従妹の手を引いて境内へと続く石段へと歩いていった。此処を登ると、此の神社の社へ漸く辿り着くのだ。
神社にも、ちゃんと御参りしようね、
うん。おねえちゃん、わたしね、いづなさまに会ったことあるよ。
ほんとう?
うん、今のわたしより、すこしお兄ちゃんだった。
他愛もない話をし乍ら、二人は石段を登ってゆく。
それまで纏わりついてきた人いきれは消え、代わりに霊気めいた夜風が肌を刺激した。
浮かれた喧騒が遠くなり、耳慣れない祭囃子が頭上の闇から降るように響いてくる。
嗚呼―――。
まただ。不規則に連なった提燈の灯火の隙間から、夜闇が此方を覗いている。
鬼灯色の灯りの、その向こう。
其処に広がる闇は昏く、無限だった。
提燈の灯りがぼんやりと明るければ明るいほど、底なしの闇が際立つのだ。
無防備な自分など、容易く絡めとられてしまうのではないか。
不吉なまでの祭囃子が迫ってくる。
不自然に高い笛の音と、太鼓の旋律は、闇に住む異形の者たちが奏でているのではないのか。 今しがた横切った提燈の灯りは、誰かの魂ではないのか。
云いようもない不安に駆られた矢先、眼に飛び込んでくるものがあった。