漆黒の天鷲絨を背景に浮かぶ、朱塗りの鳥居。
それは何処か威圧的で、神聖なる場処に足を踏みいれようとする者を拒まんとする厳しさが窺われた。
其の時ふいにまた、例の鈴の音が闇を震わした。
はッと顔を上げると、鳥居の向こう側に立ち並ぶ屋台と、社が確認できた。
鈴を鳴らす者など、何処にも居ない。
りん りん…
それでも途切れがちに、しかし明瞭りと聞こえてくる鈴の音。
清子はその音に誘われるように、鳥居の中へ足を踏み入れた。
刹那、それまで聞こえていたはずのものは遠のき、眩暈にも似た浮遊感が、あたりを支配した。
気がつけば、清子は社へと続く石畳の道の真ん中に立っていた。
等間隔に並べられた石灯籠には灯が点り、とろりと淡く色づき乍ら闇を照らし出している。
意外に奥行きのある石畳の参道には幾つか屋台が軒を連ねていたが、其の中には誰も居なかった。
屋台だけではない。先刻まで一緒に居た従妹も、 他の人間も、誰一人見受けられなかった。
傍らに構えられた手水舎の水が、さらさらと清澄な音を立てて流れているばかりである。
りん…
名前を呼ぶように鈴の音がして、清子は振り返った。
細い竹の棒に、夥しいほどのお面と風車が吊るされている。
其の軒の前に狐の面を被った…………
少年が佇んでいた。
片手に紅い風車を携えて、此方を見ている。
―――……りん。
清子の困惑に答えるように、少年の首から提げた鈴が鳴る。
其の表情は読み取れないが、清子は彼が微笑ったような気がした。
―――君は…誰、
我ながら芸のない問いかけだ。案の定、少年は何も云わずに黙って此方を凝視している。
嗚呼―――。清子は感嘆した。
此の視線だ。闇の奥から忍び寄るように寄越される、あの不思議な眼差し。
だが、それは純粋な恐怖ではなかった。
開けてはいけない箪笥をこっそり開けた時の高揚感と、其処に誰かが居ると云う奇妙な安堵感。それに一匙の畏れがない交ぜになったような感じを、たった今思い出した。
私を見ていたのは、君だったのね、
其の問いに答えるより早く、一陣の夏風が二人の間を通り抜けていった。
紅やら金糸雀やら翠をはじめとする色とりどりの風車が、一斉に其の首をまわし始める。からからからと、乾いた音を立てて風の行く先を知らせた。煌々と焚かれた灯篭の灯火が揺らいで、二人の世界が少しだけ歪んだ。
少年が、ゆっくりと近づいてきた。
極彩色の化粧が施された狐のお面は、此方に視線をあてたままだ。
君は、
清子が問いを繰り返す前に、彼は悪戯めいた手つきで清子の背後を指差す。
赤い鳥居のすぐ前に、狐の石像が奉られていた。
おねえちゃん、
清子おねえちゃん、
狐の石像に魅入られていた時、清子の浴衣の袖を引くものがあった。
途端に、今まで忘れていた雑音が洪水のように、清子の耳になだれこんできた。
どうしたの、おいなりさんなんかみつめちゃって、
惚けたようにあたりを見回す清子を仰ぎ乍ら、従妹が稚く問いかけた。
お稲荷さん、
このどうぞうだよ。
この神社はね、おいなりしんこうなんだって。おいなりさんってね、おすしのなまえだけじゃないんだよ、
心持ち得意げに、従妹が説明する。其の声を、何処か遠くに聞き乍ら、清子は先刻の屋台の旦那の声を思い返していた。
人ならぬもの。
夏の宵に現れては人の魂を惑わすもの、
ならばあの少年は、夏の宵が魅せた幻だったのだろうか。
そう自問した時、従妹の声が彼女を現へと引き戻した。
あれ、おねえちゃん、かざぐるまなんていつ買ったの、
従妹は不思議そうに、清子の左手に握られた紅の風車を指差した。
一瞬虚を突かれた清子は、しっかりと握り締めた風車を凝視め-------、
これはね、イヅナさまから戴いたのよ。
祭囃子の笛の音が、ひときわ高く鳴り響く。
宵祭りもたけなわ。少し涼しくなった夏の風が、紅い風車をからからと揺らして去っていった。
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