紅 漠 奇 譚





 
 もし、そこのお若い旦那。恋人への土産でもお探しで御座いますか?
 それなら、此方の香水びんなど如何でしょう。古いものですが、ほら。こうして燈灯あんどんに翳してみると、文様が浮かび上がってくるのがお分かりになりますか。玻璃ガラスから零れる蒼い影が砂の上で、星屑みたいに輝いているでしょう。
 此れがお気に召さないようでしたら、透かし彫りの入った金細工の小箱。南方で取れた青い鉱石が象嵌されておりますの……真珠と紅玉ルビーが象っているのは、今は亡き古の王家の紋章ですわ。
 ――― 細工の様式が珍しい?そうでしょうとも。もう随分と昔に作られたものですし……それに、貴方はこの辺りのお生まれではないのでしょうから。随分と白い肌をしていらっしゃる……眼の色も、違いますわね。深い紫紺の、砂漠に夜明けを告げる明星のような瞳。
 さほど珍しくもありませんわ。遠路はるばる、こんな辺境の都へやって来たと云うことは、貴方も今宵の祭りで稼ぎを得ようと考えていらっしゃるのでしょう?聞かずとも分かります。貴方のような隊商キャラバンは、巷にいくらでもおりますもの。
 ……そうではない?旅の途中でこの都に立ち寄った……と。
 ええ。先ほど申し上げたとおりですわ。今宵は年に一度の祭りに御座います。月と星に祈りを捧げ、太陽に恵みを乞う豊穣の儀式。都を統べる王の栄光を称える、神聖なる祭りの夜。
 不思議そうな顔をなさるのももっともですわ。この都に王はいない。無論、古き時代の因習に御座いますよ。けれどもこうして、儀式だけが脈々と生きながらえている……誰にも語られぬことのない、伝説とともに。
 今宵の祭が始まった由縁は何か、と?
 はて、もう忘れてしまいましたわ……誰かから聞いたこともあったような気もいたしますが……それもとうの昔のことで御座います。ただ、斯様かような夜の慰みとして、一つお耳にかけるといたしましょう。
 此方の……酒杯さかづきをご覧くださいまし。碧い玻璃細工の底に、一人の乙女が描かれているのが、お見えになりますか。この娘は遥か昔、砂漠の都の栄華とともに儚くも命を散らしたのちも、こうして玻璃の中に閉じ込められたまま、待ち続けているのですわ。唯一つの戀を交わした、彼の人の面影を。忘れえぬ約束とともに。





 気が遠くなるほど遠い時代、この夜空の東に小さな王国があったのですよ。この娘は、その王家の末の姫君としてお生まれになったのです。
 清々としたオアシスに、濃い緑陰が瑞々しく生い茂る、ささやかな楽園。決して大きくはない都でしたが、数多くの旅人がやって来ては、束の間の癒しを得て去ってゆく、そんな場処であったと聞いております。
 交易の多い国だったそうですわ。砂漠から伝わった異国の技術や、珍しい玻璃ガラス製品と引き換えに、当時その都で盛んに織られていった絹製品を遠き大地へ運ばせる。そんな風に、都は繁栄していったと云うことです。
 末の姫は、絹を織るのが大層お上手だったそうですわ。道楽ならば他にいくらでもあったでしょうに、慎ましく糸を紡いでは、眼にも綾な織物を編み上げてゆく……小指に結んだ紅い絹糸が、運命の相手に繋がっていることを夢に見ながら。
 しかし幸せな日々も、長くは続きませんでした。度重なる飢饉が都に飢えをもたらし、相次いで都を襲った黒い竜巻が、彼らの恵みを、生命を、ことごとく破壊していったのです。
 都は急激に廃れていきました。かつてあれほど美しく輝いていた白亜の街並みは埃に煤け、広場を飾っていた鮮やかな花たちは萎れ、都を潤した澄んだ水脈は乾いた風とともに枯れ果てた。
 衰退した都のありさまに心を痛めた王は、かつてこの地に根を張った王国と締約を結びました。急速に発展していったこの大国の恩恵にあずかろうとしたのでしょう。締約を結ぶとともに、王は彼らに膨大な貢ぎ物を贈ったということです。
 この王国の主は、それは見事な貢ぎ物を賜りました。海を越えた大陸から伝わった夜光杯、青銅の剣と矛、目も眩むほどの宝石、絹織物、そして美貌と名高い末の姫君を。
 けれども冷徹な王は、彼女を愛そうとはしませんでした。あらゆる金銀財宝とともに姫を宮中の奥深くに置き、重い扉に鍵を掛けて閉じ込めたのです。意志を持った貢ぎ物が、逃げ出さぬように。
 姫は宮殿から出ることを赦されませんでした。薄暗い鳥籠のような宮中の奥深くに身を潜め、ただ蝋燭の灯がか細く燃えるのを眺めながら、夜の帳が降りてくるのを待ち続ける、孤独な日々。
 艶やかな絹の衣服も、煌びやかな宝石の数々も、彼女の心を慰めては呉れません。ただ一人、異国の宮殿から臨む市場スークの賑わいと、夜の底に灯る紅燈こうとうの瞬きが、束の間の自由を彼女に教えます。モザイクに縁取られた高い円天蓋まるやねの窓辺から見下ろす街の活気だけが、姫の涙を優しく包むのでした。
 あの砂漠の彼方に、生まれ育った都があると。愛しいすべてを置き去りにした故郷に、もう一度戻りたいと。そう願った夜が、幾千と降り積もってゆけど、所詮は叶わぬ夢。囚われの身も同然の姫に、この砂漠を越えて旅することなど、蜃気楼にも似た幻だったのです。
 孤独と云う名の繭に閉じこもった姫は、誰にも心を開くことはありませんでした。銀の星屑が淡く砂漠を照らし出す、あの満月の晩に彼と出逢うまでは。
 そう、ちょうど貴方のように優しげな面差しをしておりました。見慣れぬ異国の楽器を奏で、叶わぬ恋の夜想曲セレナードを語る吟遊詩人。華やいだ宴を彩った詩人の物憂げな声は、瞬く間に姫の心を捕えました。そして詩人もまた、癒えぬ孤独を抱えた儚い女を愛するようになったのです。
 小指に括った紅い絹糸を手繰り寄せるように出逢った二人。棕櫚しゅろの葉陰で睦み合った彼らに、オレンジの花の香はどんなに甘く薫ったことでしょう。切なげなリュートを思わせる詩人の声が、愛の言葉を紡ぐたび、姫の心は束の間の幸福に満たされてゆくのでした。
 けれどどんな時間も、終わりは来るものです。身を裂くほどの哀しみも、甘やかな恋の日々も、いつかは終わりを告げる。
 詩人が都を離れねばならぬ時が訪れました。私を攫ってくれと望む姫に、彼は密やかな接吻くちづけを落として囁きました。いつかまた出逢えると。その時までどうか、この指輪とともに私を覚えていて欲しいと。姫の小指に金の指輪を嵌めながら、一夜の幻のような約束を残して、詩人は宮殿から去ってゆきました。
 それから幾年が過ぎ、嘆きの夜を幾度越えども、姫の涙は乾くことはありませんでした。望む思いは唯一つ、あの人にお逢いしたい。恋うる焔は焼き尽くされることなく燃え続け、月が欠け満ちるたびに勢いを増すばかり。宮殿から逃れ、彼の元へ羽搏はばたいてゆく夢だけが、孤独な彼女を支え続けておりました。
 姫の哀しみが、祈りが、あの夜天そらの月に届いたのでしょうか。もしそうだとしたならば、恐ろしいことです。彼女の望みの罪深さを思うたび、私は身が震えるのを止めることが出来なくなるのです。
 戦があったのですよ。都の恵みに目をつけた南の国がある時、嵐のように王国へ攻め込んできた。にわかに戦場と化した都が、見るも無残に荒れ果ててゆく。
 赤く燃える太陽が地平線の涯てに沈み、砂漠を染めてゆくように。闘いによって流された民の血潮は、どのような思いで砂漠を紅く色づかせていったのでしょう。人の栄華とは脆いものです。大国と呼ばれたこの国が、砂漠の嵐とともに夢と消えるのに、そう時間はかかりませんでした。
 それでもなお降伏の姿勢を見せぬ王に、家臣たちは苛立ちました。そしてある晩、このまま王国とともに砂漠の塵と化すのを恐れた重臣の一人が、姫に短刀を渡してこう囁きました。王を殺めて宮殿から逃れるがいいと。
 家臣が短刀と引き換えに渡したのは、自由と云う名の宝石。彼の言葉に踊らされた姫は、魔に魅入られたように王の部屋へ足を運びました。
 青白く輝く月が、紅く染まった砂漠を見下ろしておりました。月を眺めていた王の横顔が、ひどく寂しげに写ったのは何故なのでしょう。暫し立ち尽くした姫に気付くと、王はその華奢な躰を荒々しく抱き寄せました。
 縋るような抱擁の中で、麝香ムスクかをりが夜の底に纏いつく。噎せ返るほどの芳香に、姫の口唇を塞いだ王の口から、生臭い血が溢れ出してゆきます。その胸には、銀色に滴る月光を宿したかのような刃が、深々と突き刺さっておりました。
 何故、避けなかった。恐怖に慄く姫に、王は最後の微笑を返しました。愛していたと。か細く動いた口唇がその一言を紡ぎ終えるころ、何も映さなくなった瞳が姫を貫き、彼女の魂を闇の淵に縫いとめたのでした。




 姫は望みどおり、自由を知りました。宮殿から逃れた彼女は、砂漠の彼方へと姿を消していったそうです。贖いきれぬ罪を道連れにして。
 あの晩から、数え切れぬほどの夜を越えてまいりました。両の足に贖罪と云う桎梏しっこくの縄を繋ぎ、この深き悔恨を抱いたまま擦り歩く日々。闇の淵を彷徨う罪深き魂に、辿り着く場処などあるはずもありませぬ。
 あの頃私を閉じ込めていた繭は、私を戒め、輪廻めぐる時の中へ留まり続けるための糸になりました。気が遠くなるほどの時を越えども、あの月夜の罪は浄化されることなく、私を縛り続ける。とうに忘れ去られた伝説を、誰かに伝え聞かせるために。
 それが王の愛に気付かなかった愚かな女に赦された、唯一の贖いなのですわ。
 けれども貴方。その酒杯さかづきの底で貴方を見上げる娘もまた、輪廻めぐり去る時の流れに想いを残しているのですわ。玻璃ガラスの底に閉じ込めた、ただ一つの戀を。
 貴方に、この指輪を差し上げましょう。あら、そのように不思議な顔をなさらなくてもよいではないですか。貴方もきっと、覚えておいでのはずでしょう。あの棕櫚しゅろの木陰での誓いを。どれほどの時間が流れようと、必ず私を迎えに来ると。
 どうか、受け取ってくださいまし。いつか再び出逢えると信じていた紅い糸の伝説は、今もこうして、密やかに生き続けているのですから。









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