桜の花が咲くと人々は絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。
なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。
坂口安吾 桜の森の満開の下 より 冒頭脚色
桜狂い
満開の桜の下には 狂気が埋まっているに違ひありません
はらはらと散る 薄紅の花弁が
人間の毒と血を啜って色づゐたものに見へて 仕方がないのです
そう あれは 庭の東屋 に咲いた桜が
涙のやうに降りしきる 何処かそら恐ろしい春の日のことで御座ゐました
祖父の代から続く 年老いた桜花が
春の霞と舞い踊る季節です
それはもう
眼を見張るほどの 見事な枝ぶりでしたので
狂ったやうに 咲いてゐる
あの花に 魂さへも吸はれるのでないかと
僕たちは言葉も忘れて
この世のものとは思えぬ桜の大木を
あの東屋のもとで
飽かず眺めて居たのを憶えております
ただただ
恐れ戦慄 くばかりで
嗚呼 つがいの春の鳥たちが
梢の影で 気が触れたやうに啼いて居ます
湖畔の淵で戯れに愛を交わす
戀人たちのやうに
無邪気に笑う君のさざめく声が
甘やかに意識を染め上げていきます
爛漫と散る花びらの嵐
此の儘 禁忌の契りを結びませう
繋いだ糸が 罪とも知らで
不実の愛に 指切って二人手を取り 携へて
桜に埋もれて
果てるのならば 本望だけど
ともに堕ちるは呪いの道行
其れでも私を独りにせぬと
誓ってくださいませ 兄様
白き肌 落つる花影 は 罪の接吻
今を盛りと 散り初めて
花の褥 に乱るるは
我が戀情 と 君の黒髪
かやうなこと 正気の沙汰とは思へませぬ
けれど 嗚呼 愛しき君よ
彼方の為なら 地獄の底まで添い遂げませう
許されざる不義の証を 孕んでしまったとしても
花が絶へ 息が凍りつく季節です
三日月の夜 雪化粧
袂のはだけた 女の白い足から
赤い糸が一筋流れ
夢を 見ておりました
桜の花の 満開の下
薄く紅く色づいた景色の中で
兄様が私を手招きしている私は夢中で 其の腕の中に
飛び込んでゆくのだけど
何故かしら 涙が止まらなくなるんですの
兄様がしっかりと
抱きしめてくださる ぬくもりは感じるのに
貴女の儚い手が 僕の手に重なりました
緩く微笑んだ口許が
流れ死んだ罪の後の如く 紅ゐに染まり
唯 枕辺 で泣く貴女のもとへ
開いた襖の向こうから
雪の欠片が あの日の桜のやうに
さやさやと
舞い降りておりました
かくして次の 春が来る
狂いの桜が咲き誇る
呪われし戀人たちの 罪の証を其の身に宿し
桜の下には 名もなき嬰児の亡骸が埋まっているのです
あるいは永遠の別れを告げた 戀人たちの魂が
そら 耳を澄まして 御覧なさい
花の霞の 其の向こう
桜に取り憑かれし亡霊たちが
赤い糸に繋がれて 笑ふ声が聞こへてくるでせう?
写真一部提供 : 月楼迷宮 〜泡沫の螢華〜 様
写真(一部) : 黒船屋
撮影 : 新宿御苑 他
戻る