都会の喧騒は透明な硝子に囲われた水槽だ。
僕がそれを認識するとき
ラジヲの電波攪乱 めいた雑音だけを残して 世界は停止する。屹立するビルヂングの群れ
雑然と空に架かる広告看板
瞳に空虚を点した人々。
シャボン玉の光彩に映った幻影 をこの手で掴めたなら
僕の虚無は少しでも満たされるのだらうか今はただ 排気ガスに犯された真空を 仰ぐばかりだけれど
初恋〜グラビアの美少女
交差点のシグナルが碧 に切り替わり、間の抜けた音楽とともに人波が吐き出される正后 。大通りを行き交う人々は、むせ返る熱気に急き立てられるように、ただ足だけを機械的に動かしてゆく。
先日までの曇った空が嘘のような蒼天だった。気象庁によると、今日付けで梅雨前線が解除されたらしい。真夏の到来を告げるに相応しい殺人的な光線が、忙しなく機能する街に降り注いでいた。
こんな日に出掛けるなんてどうかしていると自嘲しながら、彼は白と黒の境界線を渡っていった。莫迦になったクーラーを友に狭い部屋で干乾びるのと、照りつける紫外線に焼かれるのと。どちらの方がましだったろうかと今更ながらに自問するも、所詮大差ない選択であることは分かりきっている。確かな答えなど持たないまま、彼は明滅し始めた信号の傍を横切っていった。
黙々と通り過ぎる商店の看板、フルーツパーラーの甘い郷愁、電氣屋の街頭テレヴィ。極彩色のネヲンサインが連なる風俗店街の露路は、今は昏々とした眠りについている。すれ違った少女たちは他愛もないお喋りに笑い声を上げ、今しがた自分を追い越していったサラリーマンはせかせかした足取りで人込みを掻き分け、向かいからやってくる主婦たちはくだらない世間話を口に上らせていた。
溢れるほどの人の頭が流れてゆくさまは、まるでそれ自体が意思を持っているかのように蠢いていた。絶えず流動する人の群れの行方すら掴めぬまま、見えない何かに追い立てられるように自分もその中に紛れ込んでゆく。降り注ぐ日差しは硝子めいた透明感を増し、おぼつかない意識をいっそう麻痺させた。
錆付いたレールの上を走っていた都電が、大儀そうな音を立てて停車した。ばらばらと吐き出される人に混じって、足腰の曲がった婆さんが舗道の上に降り立つ。行き交う人の群れは、弱々しく歩き出すその姿を気にも留めない。訪ねる場所を間違って途方に暮れたように丸まった背中が、彼の元から少しずつ遠ざかっていく。彼女は屹度 、自分の求める場処があることを知っているのだ。か細いが明瞭な意思を感じさせる足取りが、何故か印象に残った。
その後姿から眼を逸らした矢先、彼はふと、頭上に戴く電光掲示板へと視線を転じた。無機質に流れゆくニュウスと天気予報は、道行く殆どの人間に気づかれぬまま生まれては消えていく。何処かで見た覚えのある夏空に、色とりどりのアドバルーンがゆらゆらと浮遊していた。
ほんの迷いで足を止めた彼の肩に誰かがぶつかって、彼は我に返った。人の流れに逆らった彼を戒めるかのような接触だった。ぶつかった相手の姿は人の波に紛れ、既に見分けがつかなくなっている。
ぶつかった拍子に、何かを取りこぼしてしまったような喪失感が彼の胸に去来した。それが何なのか確かめないまま、彼はもう一度その波に身を委ねる。虚無の正体を突き止めるのを恐れるように。それでも心配は無用だった。己の行き先など分からなくても、この流れに身を任せていれば不安になることなど何も無い。
初めてこの人の群れとともに土瀝青 を踏みしめた時は、低俗な呼び込み看板も、金属質 のオフィスビル群も、耳を聾 するほどの雑踏も、何もかもが愛しく思えた。都会という響きが映し出した幻想に夢を見て、この場処にやってきた。金も、人脈も、住む場処すらない、文字通り身一つのまま、自由だけを供に連れて。
生まれ育った故郷で上京したのは彼だけだった。あれから数年。故郷の田舎じみた言葉を捨て、母が縫った半纏を捨て、代償に手に入れたのは小奇麗な格好に包まれた空疎な自分だった。歩むべき路すら定められず、ただ惰性の促すままにその時その時をやり過ごす、卑怯でちっぽけな男。故郷で泥だらけになりながら仲間と河原を走った少年は、もう何処にもいない。
命短き蝉の声、盥で冷やされた西瓜の味、風鈴の微かな響き。思い描く在りし日の夏の面影はいつだって同じだ。感傷というフィルターを介して覗く思い出は時を経るごとに朧ろげで、果敢 ない映像へと擦り切れてゆく。
そういえば、かつて父の古いアルバムを引っ張り出してこっそりと見たことがあった。その中で一際目を引いた、艶のある黒髪を切り揃えた一人の少女の写真。色褪せたセピアの色彩の中、まっすぐに此方を射抜く眼差しは芯の通った強さをはらんでいた。生まれて初めて眼にした高貴さとでも云おうか、別世界の住人めいた美しさは、触れては不可ないものを覗き見たような危うさを秘めていた。
埒もない追憶に気を取られていた彼は、やがて電車の高架下に差し掛かった。煤けたトンネルをくぐれば、不規則な重低音が体に振動を伝える。白昼の日差しを逃れた彼を、昼なお薄暗い真空間が受け入れる。人影が少しまばらになったその道を歩いていると、何故かその向こうに自分の生まれ育った故郷が広がっているような気がした。
川端康成じゃあるまいし。そんな妄想に囚われるのは屹度 、この憎らしい暑さの所為だ。真夏の暑さは曖昧に漂うレム睡眠と似ている。ぼやけた頭の映写機が、歪んだレンズ越しに脈絡のない夢を映し出す。
今見ている夢は、喪ったと思っていた幼き日への憧憬なのか。あるいは初めてこの地へやってきた時の昂揚感だろうか。卑小な個人の感情を轢殺 し、喰らい尽くす都会という名の魔物は、孤独という名の生ける病を彼に植え付けた。にもかかわらず今だけは覚醒することのない狂気の幻を、この瞳に映せと希求するのは傲慢だろうか。それともその魔物は、狂人じみた夢想などには見向きもしないかも知れない。ならばいっそのこと、この感情を蒸発させて、青い気体へと還元してしまえたらいいのに。
そうなれば楽だと知っていながら、楽になろうと望まない自分をこの街は嘲笑う。時代と群集が織り成す奔流の一滴である自覚を拒む男を、この魔物は飲み込もうとする。
トンネルの向こうに広がる白い光の標 に、輝かしい何を見出せるほど純粋ではないのだけど。
高架下を抜けると、忘れてかけていた太陽の光線が彼を出迎えた。その眩しさに眼を細め、手を
翳 して空を仰ぐ。自動車のエンジン音と、彼方に響く工事場のサイレン。遠くの空に聳 える煙突は黒いガスを撒き散らし、蜃気楼めいたスモッグが蒼いドームを浸食していた。幾何学的なビルヂングの直線がそれを切り取り、近代の楼閣の麓に伸びる道路が交錯する。そういえば前にも一度歩いたことがあるかもしれない、ありふれた大通り。
束の間の夢が露と消え去った時、彼は気付いた。錆びた鉄骨に架かる一枚の大型看板。古ぼけたビルを解体する起重機 の斜線がその看板から取り払われた時、そこに写る少女と視線がシンクロした。
都会の喧騒も、雑踏も、無個性さも届かぬ少女のグラビアが遥か上空に君臨している。それはまさしく、混沌とした野蛮な地上と、スモッグに犯されてもなお清廉なる天上を繋ぐ連絡線であった。
不感症の孤独な微笑を浮かべる、澄み切った眼差しをした彼女。それはかつて父のアルバムに見出した、名もなき少女そのものだった。