君の神、僕の神。 (主題・神、宗教。あるいは祈り)
「君は神を信じるかい?」
是か否か。
唐突にそう問われたとき、いや、何かの話題の延長線上でそう訊かれたとしても、一言で申すにはあんまりな質問ですわね。それがわたしごときに答えられるものならば、世界はもう少しお気楽で、憂慮すべきことが減っているでしょうに。
それでもお答えしましょうか?
神様なんて、いやしません。
一切の誤解も、相手に対する不快感への考慮も、わたしの思考が浅はかであると看做されるのも覚悟の上で、そう申し上げます。
少なくともわたしの中に、神は存在しない。
何故ならば、わたしは神という存在を持つことが赦される人間ではないからです。
『神』や『宗教』といったものは、哀しいかな、どんなものであれ人の脳みそから生まれた概念の一つにすぎません。そうでなければ、昨今の宗教観・神様に対するスタンスが人々によって違っていると云うことの説明がつきませんもの。
本来違うものであるはずの『八百万の神』と『仏』がある時代を境に混合されたりすることも。厳しい修行に耐えた修験僧のみに開かれるはずだった極楽への路も、「それぢゃあ修行出来ない人が可哀想だから、念仏を唱えればみんな極楽へ往生できるようにしよう」と提案されたことによって、それまでより極楽へ行くのが安易になったことも。
いや、それ以前に仏教の祖である仏陀(これは確か印度語で目覚めた人という意味を持つ言葉らしい。最初の仏陀とされる人間は、紀元前の北印度小国の皇子だったシッタールダガという人物)は、現世での苦難(生老病死)から解き放たれるためには、執着する心を棄て、悟りを開くことが必要であると説いたのです。つまり仏教は現世での生き方を教えるのが本来の姿であり、死後の世界云々はもともと存在しなかったのです。これは開祖である仏陀が死した後、お弟子さんや信者がそれぞれの解釈をつき合わせるなどして紆余曲折を経たあと、遠い極東の島国に流れ着いた概念なのでしょう。
このように人々の手によって変化し、曲解され、それぞれに都合のいい、もしくは信じるに足るように成長していくものが宗教、あるいは神であるのです。あるいは時代のニーズによって様々に枝分かれした、希望を欲する人々が生きてゆくための装置とでも云い換えられるでしょうか。そこには人類の予想を超えた超現象的な力はありません。あるのはただ矮小でありながら多くを望む、人間の欲望だけなのです。
そうして時代や人間とともに流動してゆく『神』や『宗教』といった概念は、人間なしには機能しません。よって、神とは居る人には居て、居ない人には居ないという非常に不安定な存在となるのです。
そしてわたしは恐らく、後者に属します。
神様って信じていません。むしろ神様を信じたくなるほど切迫した出来事に遭ったことがないと云った方が正しい。
平穏というぬるま湯に浸かりきった此の国で、さしたる悲劇も喜劇も演じられることがなかったわたしの人生の中では、目に見えぬ形而上の存在に縋りつきたくなるような事態に陥ったことはありません。そりゃあ人並みに悩みもあったし、苦しいこと、辛いこともありましたが。それは現代に於いて過半数の人々が経験する類のものであったし、その程度のことで神を持ち出すのは心からその存在を信じている人に対して失礼に当たると思い、自重してきました。
第一、わたしの苦悩なんてものはせいぜい志望校の判定が芳しくないだの、英語が出来ないだの、足が太いのはどうにかならないかだのと云った低次元の問題です。そんなことで誰かに縋るくらいならば、まずは自分で何とかすべきであると云うのが持論でし
た。………偉そうな口を叩いておきながら、結局何もしないで物事を有耶無耶にしてばかりいましたが。それはつまり、曖昧にしても差し支えがないくらいわたしの苦悩が軽かったということを表しています。あたかも青空にたゆたう綿雲のように軽薄な、わたしの苦悩と呼ぶのもおこがましい苦悩。
ただ一つだけ、そんな冒涜的な思考を有していなかったある幼い頃、毎晩のように神様に祈ることがありました。
それは、世界が平和になること。
卑小なわたしが足掻いたところで叶うべくもない大きな望み。平和なこの国に育ったわたしが平和を望むのもおかしな話ですが、その当時は必死だったのです。それはおそらく学校教育の中で否応なしに教えられた、悪しき戦争教材への恐怖に因るものだったのでしょう。その手の話は今でも忌避しています。グロテスクで残酷な話を好むわたしが、戦争の残虐な逸話を厭うというのに納得できない方もいるでしょう。ただ、どうしても駄目なのです。戦争が絡んだ残酷な話だけは受け付けられない。それは屹度、其処にあるのが虚飾にまみれたつくりもののグロテスクさではなく、現実にあったという、実際の空気を醸し出すようなリアリティを孕んでいたからに相違ありません。
そう云うわけで、話を聞くだけで逃げ出したくなるような災厄がこの身に降りかかることを、なんとしてでも避けねばならないと子供ながらに思ったのでしょう。この空の何処かで戦禍に巻き込まれた人々を思いやる気持ちはさほど持ち合わせておりません。その災いがこの国をも巻き込まないことを祈ったのです。なんと身勝手で傲慢な願いでしょう。それでは祈らないほうがいいというものです。
かくて、この不徳な少女の祈りを神聖なる神が聞き届けることはありませんでした。
当然といえば当然ですが。
しかし本当に平和を祈るならば、神に縋っていては何も始まらないことに気付き始めました。それはなにも『世界平和』というような大きすぎる望みに限ったことではありません。日々のささやかな望みにも通ずることです。
七夕の短冊に『世界平和』を書く人は本気ではないと誰かが云いました。
つまりそれは、願いは祈る前に、自分でどうにかするものだろうと云う警告。
神や宗教の教えは、努力も気持ちも無い人間の前には決して開かれることは無いのです。お説教くさいことを云っていますが、要するに努力も気持ちもないわたしは神を持つ必要がないと。そう云う結論にたどり着きます。
もちろん正月には神社に御参りに行くし、形式だけの厄払いもします。違った意味での祝福をクリスマスにはするし、受験の時には近くのお寺でかなり熱心に合格祈願をしました。その程度の信仰心は持ち合わせていますが、心からそれを信じる気持ちにはなれません。ただ、不安な時、あるいは神聖な気持ちになる時にのみ頼るもの、それが私に都合のいい神でして。
神を信じなければいけないほど切羽詰った生き方をしていないわたしは、今のところ救いを求める対象は親や友人を始めとする現実の人間で間に合ってしまいます。嗚呼、こんな罰当たりなわたしは屹度、中世ヨーロッパ、もしくは戦時下の日本や独逸では生きてはいけなかったでせうね。
いつか人知を超えるような奇跡が起きたら、
もしくは何も頼るものがなくなったなら、
私は神を信じてもいいかもしれないけれど。
今思うのは、人の世なんて所詮は人が創っていくものだから、神など必要ないということ。
けれど、神様や宗教を信じられる人って幸せだと思います。
無償で信じられるものがあるというのは、実は大きな救済であるからです。
最後に、この台詞を持って結びとさせていただきます。
アニメ『攻殻機動隊〜STAND ALONE COMPLEX』において、とても興味深い台詞がありました。
一度見たきりですので記憶は定かではありませんが、確か「ゴースト(自我や魂)を持つ人間にとっての神はアナログで、ゴーストを持たないAIが持つ神はデジタルである」と云う内容だった気がします。
共に鑑賞していた父と二人で顔を見合わせました。云いえて妙である、と。
神は人の魂に宿るものなのです。
真に信じられるものは人の魂に、そう、貴方の中にも存在しているのです。
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