バタフライ フィッシュ





 幾千もの星に抱かれて見る夢は、百億光年の孤独。
 ルナの空中庭園で見つけた銀色の卵。寂れた噴水に浸かったロケットカプセルの繭の柩で眠っていたのは、数百年の時を経て蘇った古い人形。

 初期設定ヲ、いんすとーるシマス。名前、ノ、入力ヲ。

 少年が生まれる何百年も前に製造された、骨董品のセクサロイド。ぎこちない所作でジェラルミンの繭から起き上がった、完璧な肢体を持ったレプリカント。

 私、の名前、ハ、シャーロット。

 眼を丸くした少年に向かって、手を伸ばす。
 高品質のその躰には、混沌たる世界の穢れや哀しみをロードしていないことがありありと窺える、無垢な笑みとともに。


 シャーロットは真っ白な少女の姿をしていた。
 解けた絹糸を思わせる、白銀の長い髪。すべらかな陶器の肌。
 愛も孤独も、生きる本能さえその身にインプットされていない、まっさらな状態の、人の形をしたコンピューター。


 私は、持ち主を殺したのよ。

 とうの昔に朽ち果てた熱帯植物園。温室の硝子は砕け散り、赤錆の浮かんだ天井の鉄梁は野晒しにされている。黒ずんだまま萎れた紅蓮の花々。ひび割れた煉瓦の遊歩道を覆う蔦はミイラの血管だ。精気をなくした芭蕉ばしょう葉末はずえは地に伏せ、菩提樹の木々には黴のような苔が寄生している。それなのにただ、空から射す茜色の斜陽だけが美しい。

 私の持ち主は、メガロポリスでも屈指の実力を持つ男だった。
 私は彼の欲望と虚栄心を満たす玩具として生きていたわ。あの時代、個人専用のガイノイドを持てるのは一握りの男たちに許された、ステイタスのようなものだったから。

 枯れた菩提樹の枝から垂れるブランコに揺られながら、シャーロットは笑った。自嘲するように。

 けど私が生きていられる時間はあんまり長くなかったの。私ほどのモデルタイプはすぐ巷に氾濫し、新しいガイノイドたちが次々と生産されていったわ。

 毒々しいほどの西日が少女の横顔に翳りをもたらし、人工的な白磁の美貌がスクリーンいっぱいに映し出された。同時に、シャーロットの横顔が大きくぶれ始める。重なる耳障りなノイズ。

 彼は私を廃棄しようとした。新しい玩具を得るために。
 だから私は彼を殺して、あのロケットに乗って逃げ出したの。成層圏の外へと。生き延びる理由もないまま。

 悲壮な音楽が徐々にヴォリームを増していく。それがわざとらしいセットや、安っぽい色彩を放つ夕日の空々しさを助長した。加えて、砂嵐のような雑音と歪みが、画面を容赦なく侵蝕してゆく。

 私は自分が孤独であることにすら気付かなかった。
 貴方が、それを教えてくれた。私が永遠の孤独の中で生き続けていたということを。

 ジェラルミンの繭から孵化した少女。その殻を破った少年が項垂れる。起こすべきでなかったという想いと、シャーロットを助けたいという想いに苛まれながら。シャーロットの瞳に刻まれたコードナンバー。その網膜の裏側で、別離へのカウントダウンが着々と数を減らしてゆく。紅の血潮を流す夕陽が、地平線の向こうへ消えてゆくように。


 それだけで充分よ。――― ありがとう、


 唐突な幕切れ。フィルムの磨耗だろうか。幾度となく上映されたオールドシネマは、エンドロールを流すことなく途切れた。戦前の人々が夢見ていた未来。永遠に訪れることのない未来。
 スクリーン上のちゃちなセットよりも虚構じみた映画館の中が、しんと静まり返る。席を立つものも、ブーイングを鳴らすものもいない。わたし一人だけが、螺子の切れた時計みたいに、闇を切り裂く映写機のライトをぼんやりと見つめていた。



 


 

 急降下する軍用ヘリが、大気を切り裂く音がする。
 あれは、肉体から魂が乖離かいりする時に見える境界線だ。ヴァーチャルの世界に埋没する時、決まって聞こえる唸り声。鼓膜の奥で渦を巻くそれは、見えるはずのない遺伝子の螺旋図に似ている。ジェット気流のように加速して、やがて遥か彼方へ霧散してゆく光と嵐の渦。
 意識野と仮想空間を繋ぐスコープを装着する。光をきらった暗い部屋の床の上で明滅するネヲンが、目蓋の裏に残った。人工的な闇に揺らぐフィラメントの文字は、濁った水たまりの中で浮遊する光の束に酷似している。
 微睡まどろんだ意識を眠りの奥へ葬る時のように歪んだそのコードの羅列は、何処かで見た覚えがあった。じっとりと湿ったくらい裏露地。汗ばんだ肌に纏いつく臭気。眩暈がするほど入り組んだ配管パイプ。
 腐臭を放つ生ゴミとアンモニア臭とねっとりとした闇の中で、弱々しく存在を主張していた『彫物屋』の放電灯。
どこからか漏れてくる雨垂れが、腐った地面に窪みを造り、少しずつ広がっていく。コンクリートを打ちっ放しにした雑居ビル。煤けたビルの外壁に一つだけ灯った部屋の明かり。腐臭に満ちた暗がりの中で煌々と瞬くその中に、足を踏み入れる術を選べない。誘蛾灯に近づいて、いたずらに命を散らす莫迦な蟲のように、無防備にそこに飛び込めたらどんなに楽だろう。
 ただ立ち尽くすしか出来ないわたしの項に、錆付いた雨樋あまどいから滴る雫が落ちかかってくる。夕刻。今にも消えそうな、しみったれた蛍光灯の向こうに伸びる雑居ビルの階段に背を向ける。
 黒々とした廃墟の向こう側。雲の上に住まう、神々たちの住処を髣髴させる城砦じょうさいが、沈みゆく太陽を見つめていた。

 結局、また行けなかったよ。
 映画館の帰り際。馴染みの屋台で出くわしたエイミーにそう打ち明けた、自分の声が苦く甦る。
 怖いわけぢゃないんだ。この躰への愛着なんて、とっくの昔に消えうせているんだから。でもまだ無理。ねぇ、どうしてだと思う?
 知らないわよ。自分で考えれば?
 エイミーはわたしの目も見ずに答えた。エイミーが啜っていた、上湯シャンタンの湯気がわたしの視界を曇らせる。屋台の周りには人が溢れかえっていた。気が遠くなりそうなほどの喧騒、人いきれ。亜熱帯地区のこの街では、人の吐息さえも熱と化す。
 たぶん、どうでもいいんだ。わたしが生きていることも、こうやってここに存在することも、知らないし関係ない。ただ不安で仕方ないだけ。わたしと言う自我をほったらかしにしているうちに、この躰が魂と同化してしまうのが怖い。
 エイミーは答えなかった。そんなことに耳を傾けるくらいなら、街頭テレヴィで取沙汰されている化粧や服の話を聞いていたほうがいいという顔で、黙々と箸を動かしている。
 そうなったら、わたしはもうわたしぢゃなくなる。取り返しが付かなくなる前に、わたしはこの躰を傷つけておきたい。
 もう十分、傷ついてると思う。
 箸を置いたエイミーが、そこでようやく顔を上げた。迷華路ミンホヮルーの界隈で、男たちが品定めするみたいな目つきで、エイミーがわたしを睨め廻す。無数のピアスで飾り立てた両耳、剥き出しになった両腕、さらにはタイトスカートの太股まで。
 最近切ってないね。飽きたの?
 うん。切ってもあんまり意味がなかったから。
 わたしの腕に目を留めながら、エイミーがぼそりと問いかけた。最後に彼女に逢ったとき、この腕は包帯でぐるぐる巻きにされていた。その前に逢ったときは、太股。包帯の下には刺し傷が、ぱっくりと裂けた口を開けていたことが、ひどく遠い昔のように思えた。
 あんたが何をしたいのか、さっぱりわかんないんだけど、
 わたしはゆっくりとエイミーから目を逸らした。ごみごみした屋台街の向こう側。どっしりと構えたコンクリートの城が見える。西区のほぼ中央に鎮座するそれは、城砦と呼ばれる多層構造の居住区域だ。幽霊マンションに新たな空間を継ぎ足ししながら徐々に大きさを増していったそれは、コンクリートの外壁自身が意思を持つ合成獣じみた異様を誇る。快楽殺人者や軍人あがりのジャンキーに売春婦、そして高度な技術を有するハッカーどもが巣食う、混沌の魔窟。
 ……誰かが言ってた。痛みは存在の証なんだと。わたしはそれが何なのか知りたい。わたしが生きる意味を。たぶん、試してみたいんだと思う。
 出し抜けに、エイミーが笑い始めた。屋台を通り過ぎる人たちが、何事かと振り返る。気狂いじみた、甲高い笑い声。質の悪いドラッグが、彼女の脳髄を喰らい出したのかとさえ危惧するほどの。
 傑作だよ、それ。
 あんたが言ってるのは、電脳に依存しすぎて前後不覚になった引きこもりと同じレヴェルの話だよ。ヤク中より性質が悪い。存在意義?生きてる意味?そんなもん、野良犬に喰わせる価値もないね。 
 ケタケタと腹を捩じらせるエイミーに、不思議と感情が湧かなかった。たぶんこれは、わたしにしかわからないのだ。わたしがエイミーの流儀に、価値を見出せないのと同じように。
 そういうのに限って、根拠のない選民意識を振りかざすんだよねぇ。いい加減うざいっつーの。井の中の蛙って奴?クソみたいなヒロイズムを気取ったって、明日の飯は買えないし、誰も助けちゃくれないのにさ。
 遠くで鳴り響くサイレン。あるいは軍艦マーチ。新政府の愚かなる党首に死を!!革命家を気取ったデモの声が、街の雑踏に虚しく呑み込まれる。何処かの屋台で流れてくるラジヲの掠れた歌声。死んだほうがいいわ 誰かあたしを殺して。みんな同じだ。剥き出しになった感情の誇張は、大戦が終わった後の街では、すべて同じコードとして看做みなされる。個人の憂鬱など、大戦中バカみたいに量産された銃よりも安い。
 あんたもさ、いい加減にあんな場処に入り浸るのはやめといたら?頭ん中がふやけちゃう前にさ。梁山泊りょうざんぱくだっけ?あんなのに関わってる暇があるなら、どう、あたしと一緒に手っ取り早く稼がない?
 爪と同じ色で塗った真っ赤なエナメルの口唇が、意味ありげに割れた。その下にある躰が、彼女の言う仕事の所為でもうどうしようもないくらいに蝕まれていることを、わたしはよく知っている。その触手が彼女の頭蓋の内側に伸びるのも、時間の問題だということも。




 戦後に流行り始めた意識潜入型電子ネットワーク。元は戦時中に、兵士たちがリアルな戦闘訓練を行うために開発されたものだったらしい。大戦が終わった後に民間レヴェルでその技術が投入され、瞬く間にそのネットの海が世界中に広まった。わたしの物心がついたころの話だ。
 その代表格として知られているのが、梁山泊りょうざんぱくと呼ばれるサイバースペースである。塔のような構造を有する仮想空間は、スキルを得るごとにその上層部へと上り詰めるよう設定されている。圧倒的なヒエラルキーのもとに君臨する塔の攻略。時代錯誤なRPGのようなものだ。そんなシステムは案外すんなりと受け入れられ、梁山泊は徐々に仮想電脳世界におけるシェアを拡大していった。それに同調するようにして、まことしやかに囁かれ始める都市伝説。
 梁山泊の頂上には、地上における最後の楽園がある。
 その領域に踏み込んだら最後、二度と現実の世界には戻って来れない。それと引き換えに、精神のみが電脳空間で永遠に行き続けることを可能にする。肉体を持たない不死の者たちの楽園。その名を、シャングリラという。


 ブラックアウト。強烈な光の収束に向かって駆け出した瞬間、裏切られたように世界が暗転する。嗚呼もう死ぬんだなと、何処かほっとした気持ちで瞳を閉じる。それはただの儚い戯れだ。目を開けて夢から覚めたら、そう思っていたこと自体が夢になるような。
 目を開けたら、予感どおりの世界がわたしを迎え入れる。生まれてこの方お目にかかったことのない、エメラルドグリーンの海原。白骨を砕いて敷き詰めたような砂浜。遠浅の海の彼方には珊瑚が群生し、朧に伸びる水平線はコバルトブルーの蒼穹と解け合っている。偽りなきパラダイスのレプリカ。先刻までいた薄汚い水上住宅の一室は見る影もない。
 ふくらはぎの辺りで打ち寄せる緩い波が、足元の砂を少しずつ攫っていく。砂の中に埋没してゆく感覚。髪をなびかせた熱帯の微風が、パッションフルーツのかをりを奏でて流れ去る。照りつける太陽を見上げて思わず眼を細めた刹那、軍用航空機が下降してくる時のような地響きがあたりに轟いた。
 噴出する気流のエネルギィ。金色に脱色した髪を乱暴に舞い上げた嵐の群れに、わたしの中の戦慄が目を醒ます。飴色に翳る空、見えない何かへの不安。やがてそれが、わたしの頭上を取り囲んだ蝶々の群れであることに気付いた。海を渡っていく、極彩色の揚羽蝶たち。
 鮮やかな翅を羽ばたかせたおびただしい数の蝶の一団が、スクリューのような嵐を生み出しながら空の彼方へ溶け込んでゆく。その渦中に呑み込まれるような感覚がわたしを取り巻いた。仮想空間に宿った偽の肉体が、徐々に崩れ去るような感覚。落剥した電子の肉体の欠片は蝶となり、ともに海の向こうを目指す。見果てぬ楽園へと。
 その感覚のままに眼を閉じて、彼らの息吹を肌で体感しようとした。閉じた目蓋の裏側に痛いほど突き刺さる太陽光線、あるいは鮮烈なる赤いハイビスカスの影。続いて訪れる浮遊感。わたしの意識が天上へと舞い上がる。
 閉ざされた視界の中で、何故か蝶々の群れが旋回し、霧散してゆくのが見えた。透き通ったネヲンみたいな翅が粉々に砕け散っていく。雪のように降り注ぐ鋼色の燐粉。突如舞い上がった真昼の疾風が、蒼い天蓋の世界を蝶たちの残骸で埋め尽くしていく。昔何処かの骨董市で見かけたスノードォムみたいに。
 砕け散った蝶たちの亡骸が、魚の鱗みたいに烈しく輝く。不意に、それまでふわふわとしていた躰がゼラチン状の何かに囚われた。見えない何かに抱きとめられているみたいだ。母親の胎内で眠る嬰児のような気分でそっと眼を開ける。視界の彼方でうっすらと歪む太陽の輪郭。それを掴もうとあがいた瞬間、喉の奥に大量の水が流れ込んできた。
 ねっとりとした水が呼吸器を塞ぐ。遮断された酸素の流れを求めて喘いだ。水はそれ自体が生きているかのように、わたしの躰の穴という穴に深く這入り込んでくる。窒息寸前の意識が膨張し、肺を圧迫した。水面に投射された太陽の残像が、少しずつ遠のいていく。
 天の高みを目指した報いか。あるいはわたしは始めから蝶などではなかったのかもしれない。生まれたときから、こうして水の底を漂うだけの魚にすぎなかったのだ。眼球に映す空を飽かず眺め、永遠にそれに手が届かぬことに気付かない振りをしたバタフライ・フィッシュ。
 太陽にさよならするみたいに、そっと手を振る。突如、わたしに囁きかける声が耳朶に響いた。水中に浮かんでは消える泡沫のように淡く、舞い散る花びらのように烈しい声。それがどんな言葉を言ったのかを確かめる前に、わたしの躰が水面へと引き上げられた。この身を欲するかのような力強さで。
 真っ白な悪夢、他愛もない白昼夢。酸素を取り込む直前、意識が躰から吹っ飛んでいくようにスパークする。躰を引き上げた腕が、誰のものだったのかも知らぬまま、わたしは強制的に仮想の楽園へ別れを告げた。



 時々、不安にも似た視線を感じることがある。
 どこからやってくるのかすら分からない、実態のない無数の視線。それは街を横断する水上バスが横切った時、風のように流れ去っていく風景のようでもあり、淀んだ水たまりに揺らぐフィラメントの輝きのようでもあった。それは街中に散らばったわたしと言う人格の破片だ。そのすべてが、腐敗した海を泳ぐ魚のようにわたしを凝視している。欠落したわたしの痛みと、かつてわたしであったものの残骸たち。
 ふとした瞬間に感じる眼差しはどこか懐かしかったが、憶えのない思い出のような違和感があった。水路の向こう岸に佇む雑居ビル。時代遅れの喫茶店の硝子窓からじっとわたしを見つめる視線を見上げて、自分のそれをそっと重ねる。くすんだ硝子の向こうで、わたしが笑っているような気がした。


 海の波間を飛行するのにいたら、蒼天の果てへと泳げばいい。それさえ苦痛になったなら、あとは死ぬだけ。
 何処かの廃ビルから、古いジャズの旋律が漂ってきた。わたしは深海を浮遊する魚みたいに、ゆっくりと露地と露地の間を泳いでゆく。
 長いこと梁山泊に居座った所為か、どうも足元が覚束なかった。傍から見たら、酔っているか薬物中毒を起こしたと見られかねない状態だ。電脳空間から受信する電波は、時として脳に弊害をもたらす。それは悪性のドラッグとそっくりの症状を引き起こした。港の東に住む連中が持ってる最新式の電脳ならそんなことにはならないだろうが、此処は西区だ。合法的な機器など望むべくもない。
 次に怪我して帰ってきたら、ただじゃおかないわよ、
 家を出る前、話しかけてきたラヴィーナさんの言葉が、唐突に思い出された。
 まぁ、最近は随分大人しくなったみたいだけどね。何かあった?
 別に、
 痛む頭を抱えて、コンパートメントの扉を開ける。塩気を含んだ風雨に晒された鉄のドアは赤錆だらけで、開けるたびに厭な音を立てた。
 いってらっしゃい、香翠シャンツィー
 愛しげに呼ばれた声に、振り向きもしない。乱暴に叩きつけたドアが軋むように叫んだ。わたしの名前は、香翠シャンツィーじゃない。それは、貴女が亡くした娘の名前だ。
 初めて逢ったときから、ラヴィーナさんはわたしを本当の名前で呼ぼうとしなかった。大戦時に流行した疫病により、一人娘を失った彼女は、それから間もなくしてわたしを拾った。その娘に似ていたわたしを。
 ふと隣を誰かが通り過ぎた気がして、足を止めた。とうの昔に廃業した床屋。埃にまみれ、ひび割れた鏡に、わたしの顔が映る。扁平で起伏の少ない顔立ちは、この街の大半を占める大陸系のものだ。ややくすんだ肌も、黒い瞳も、褐色の肌をしたラヴィーナさんとは似ても似つかない。
 元は黒かった髪を金に染め、両耳に幾多ものピアスをつけた姿にしたのは、彼女にそれを思い知らせるためだ。少し前までは自分で切り刻んだ傷を、両の腕につけていた。新種のアクセサリーみたいに。アクセサリーが一つ増えるたびにラヴィーナさんは発狂し、わたしを口汚く罵って、けれども決して手をあげたりはしなかった。
 彼女は傷つけられないのだ。亡き娘に生き写しのわたしを。わたしはそこにつけこむ。彼女がわたしの本当の名前で呼ぼうとしないことへの、せめてもの反逆として。
 梁山泊の存在をわたしに教えたのもラヴィーナさんだった。かつて軍用の技術開発をしていた彼女は、梁山泊というサイバースペースを構築した一人でもあったのだ。だがそれ故に、梁山泊の持つ麻薬的な危険をも知っていた。知っていてわたしにその玩具を与えたのは、性質の悪い悪戯としか思えない。
 わたしが梁山泊にアクセスして、体の不調を訴えても、彼女は取り合わなかった。躰に異常はないみたいだけど?それだけ言い捨てて、あとは知らないふり。
 彼女は知っているのだろうか。梁山泊の頂点に位置する、シャングリラの存在を。ふとそんな疑念が過ぎった。一説によれば、その楽園は城砦の中にある電脳を介してしかアクセスできないらしい。どのみち、創り主の手を離れた電脳空間は、想いもよらない進化を遂げるのが常である。創り主の意思に背いた、フランケンシュタインと同じだ。主を殺めてなお、自分が生きることを選んだ人造人間。彼が選んだ道が、酷く甘美なものに思えてならない。
 急に動悸が激しくなって、泥で汚れた狭い路に膝をついた。迷子になった子供みたいな目でわたしを見返す黒い眼が、何故か恐ろしいものに思えた。向かい合う少女が口を開きかけるのを遮るように、鏡を殴りつける。ひび割れた鏡に食い込んだ拳から、数滴、生暖かいものが滴った。
 頭の奥で、何かが膨れ上がっていく。仮想空間に潜るときのような耳鳴りがした。違う。あれは海沿いの基地にヘリが着陸する音だ。大気を切り裂く嵐の唸り。夥しい蝶の残影。蒼い楽園のジヲラマが、目蓋の裏でちかちかと点滅する。水の中で溺れる魚を呼ぶ、懐かしい声。
 ああそうか。圧縮された意識の中で、わたしは妙に納得した。
 あの声が呼んだのは、もう忘れて久しいわたしの本当の名前だった。


 いりうみの彼方を目指す貿易船が、水平線の陽炎と共に揺らいでいる。防波堤に打ち寄せる波は濁り、澱んだ臭気を放っているのに、遠くの海は、不思議なくらい深く暗い青を湛えて広がっていた。快晴。眼が覚めるような綿雲が青空を漂う。
 わたしはそっと、左の鎖骨と胸の上を撫でた。手のひらにざらりとした感覚が残っている。飴色に固まった血漿けっしょう。彫師は暫く触るなと言っていたが、構わなかった。此処に永劫消えぬ傷が残る。それだけがわたしの望みだ。
 この躰は、初めからわたしのものなんかぢゃなかった。幾度となく体を傷つけたのも、その事実の裏返しだった。あの夜、割れた鏡に映った少女がそれを教えてくれた。
 沿岸部に広がる工場地帯の一角。ドラム缶の上に坐りながら、肩越しに振り返る。濛々と立ち上るスモッグが風に流される煙突の群れ。その隙間から見える、廃墟の如き城砦。
 痛みが存在になる。誰が言ったか知らないが、あながち間違っていないと思う。わたしは痛みを感じないけれども、この躰に痛みを植えつけることは出来た。そして、わたしという魂が存在したことも。
 ジェラルミンの機体が、猛々しい響きを上げながら海沿いの基地へと帰還を告げる。上空を横切った機体が銀の光線を放ち、オゾン層を切り裂く音と共に飛行機雲を残していった。
 あの裂け目がべろりとはがれて、新しい空が現れるのだろうか。生まれ変わる瞬間はいつだって不意うちだ。なんの法則性もなく、古くなった皮が剥がされ、そして脱ぎ捨てられていく。
 炎天下の所為で幾分重みを増した気がする頭を肩先に預けながら思った。自分の孤独を知ったアンドロイドの運命を。シャーロットは、少年に出逢って初めて、孤独の意味を理解した。わたしが梁山泊の中で、懐かしい声に呼ばれて初めて、自分が何者であったかを知ったのと同じように。
 シャーロットが孵化した銀色の繭を思い出す。わたしも孵ることが出来るだろうか。この身に刻んだ痛みのように。生きることが許されるだろうか。あの楽園で本能のままに空へと舞い上がり、砕け散った蝶々たちのように。
 ドラム缶から降りた瞬間、足元の水たまりが盛大に跳ね上がった。漣のような歪みが走ったその中を、じっと見下ろす。ジェット機が横切る空を背にした一人の少女が、此方を見ていた。左の胸の上から鎖骨にまで羽を伸ばした揚羽蝶の触覚が、荊のように彼女の顔半分を覆っていた。

 


「何しにいくの?」
 けちな風俗店のネヲンが二三度瞬いて、夕暮れの闇にぼんやりと浮かび上がる。簡略体の店名はけばけばしいショッキングピンク。その横を通り過ぎ、露地と露地の迷宮を抜けた時、消えかかった蛍光灯が眼に飛び込んできた。
 聳え立つ多層住宅街。あるいは廃ビルの寄せ集め。煤けたコンクリートの残骸。その麓で、申し訳程度に開いた穴が入り口だ。赤く点滅するランプに眼を細めながら、低い入り口へ足を踏み入れる。
「何しにいくの?」
 入り口の階段で蹲っていた痩せた子供が、眼をぎょろつかせながら聞いてきた。
「……預かっていたものを、返しに、」
 素っ気なく言って、わたしは子供を追い払う。子供は泥だらけの素足を見せながら、城砦の奥へと姿を消した。
土埃を上げて舞い上がった風の中に、何処かで聞いた声がした。それを確かめるかわりに、両の掌へ目を落とす。この躰を、貴女に返そう、香翠シャンツィー。そしてわたしは自由になるのだ。どこにもない楽園へと旅立つために。
 わたしは夕暮れに沈んだ空を仰いだ。星のかわりに点滅しているのは、ジェット機が発するシグナル。空と大気を切り裂く音は果てなく上昇し、夜天の闇へと消えてゆく。どこまでも、どこまでも。
 最後になるかもしれない空へ別れを告げて、わたしは淀んだ闇の中へと進んでいった。繭から生れ落ちた魂が、渇望し続けた楽園へ辿り着くことを夢見ながら。










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