第一景 君に降る雨



 

 

 夜気を揺るがす振動音が何処か遠くから聞こえてくる。夜の静寂に振る雨は、絹を切り裂くかのように、細い。項に落ちてきた水滴のかけらが、長いこと浮遊していた僕の意識を夜の底から呼び戻した。
 やっと体に戻ってきた魂は、それでも自分の居場所を判りかねているようで、瞳が写した風景を瞬時に理解してくれない。水の中を覗き込むような、焦点の合わない曖昧な覚醒の中で、僕は頭上から降ってくるトタン板と水滴のメロディが、単調なリズムから不協和音にシフトしてゆくのをぼんやりと聴いていた。
 夜半過ぎから降り出した雨は激しさを増し、帰るあての無い僕の体をひたひたと蝕んでいく。打ち棄てられた廃工場を思わせる、陽の当たらない路地裏だったけれど、今夜の雨はその隙間をかいくぐって僕の元へとやってきた。安全な場所を見つけた野良猫よろしく蹲っていたが、これでは安息することすら出来そうにない。早く出て行けと云わんばかりに垂れる雨水に急かされながら、僕はのっそりとその場を後にした。
 

 冷たい午后  泣きたくなる湿った真昼
   幽霊みたいな理科室   蛍光灯は点さないで 
  ぼやけてゆく君と僕  雨が伝う窓ガラスに滲んだ


 しけたスナックやうらぶれた居酒屋が軒を連ねる、せせこましい界隈。夜通し赤提灯が点る裏通りだったけれど、殆どの店がその賑わいを後にし、店仕舞いを始める時間帯だった。今日に限って、泥酔した中年客や、店が吐き出した残飯にありつこうと彷徨う浮浪者の姿が見受けられない。降り注ぐ雨に濡れた飲み屋街は、ゴーストタウンの如く静止していた。アルコール臭を残す空っぽの瓶や、腐りかけた残飯がこびりつくポリバケツに混じって、影に身を潜める者に気づく人間など誰もいない。
 何時もならば酔客の置き土産の饐えた匂いやら、胸くそ悪くなるような酒臭い異臭が絡みつくように沈殿している狭い通りが、降り続く雨によって浄化されていく。もっとも、この雨が止めば湿った風が酸味を含んだ街の匂いとない交ぜになって、更なる腐臭をもたらすのだろうけど。それでもほんの一時だけ、雨はこの場処がはらんだ穢れを洗い清めているみたいだった。
 その洗礼は、半ば這うようにして当てのない場処を探す僕にも届くのだろうか。深い、深い、底なしの深海を漂うような夜の暗がりに慣れた眼を頼りに、根無し草の僕は覚束ない足取りのままゆっくりと歩いていった。





 幸福の王子のツバメは、きっと幸せなまま死んだんだ。
 王子の白くて無垢で高潔な魂だけを 信じていられたんだから。

 そっか、

 少なくとも僕は、そう云う死に方がしたい

 それって、王子の銅像の傍で野垂れ死にたいってこと?

 違うよ 幸せなまま死にたいの





 君は知っていただろうか。
 僕にとっての幸福を。たった一つ、信じるに値する僕だけの真実を。
 あの時、突拍子もなく、歪んだ自殺願望にも似た言葉を口にした僕の瞳と。
 嗤うでもなく聞き流すでもなくそれを受け入れた君の眼は。
 きっと等しく、日差しの傾いた澄んだ空の彼方を写していた。
 世界の終わりを夢見るように。




 パタリ ぱたり
 いたぶるような水滴が後から後から落ちてきて、僕の髪を濡らした。少しでも雨を凌ごうとする無駄な試みを嘲笑っているのだろう。あの場所に潜んでいた時間から夜闇を覆っていた霧雨の所為で、体は既に湿気を帯びている。正常な人間の体温なんてとっくの昔に忘れている体は芯から凍えているはずなのに、意識だけがだるい微熱を伴って僕の細胞を破壊してゆく。
 ふいに、君と行った遊園地の残像が僕の脳裏によぎった。
 少し寒い冬の、けだるい午后。平日だった所為で、遊園地には殆ど人影が見当たらなかった。誰もいないメリーゴーラウンド。無気力なピエロの笑い顔。がらんどうのまま回り続ける観覧車。そそり立つスカイタワーは灰色の空をバックに静止したままで。ありとあらゆる幻想を模した張りぼての夢の国は、あの日透かし見た世界の涯てとちょっとだけ似ていた。
 激しかった雨が少し緩んだ。
 僅かな希望を見出した僕は、ともすれば崩れ落ちそうになる膝を奮い立たせながらあの場所を目指した。



 誰も、居ないね

 ああ

 みんな、何処かへ行っちゃったのかもよ?
 地下に隠した核シェルターの中とか、月の裏側とか、

 お前ってほんとにそういう話が好きだよな

 別にいいじゃない。
 今 世界は、僕らだけのものだ


 おどけた素振りで、半分妄想が交じった冗談を口にしてみたりして。
 けれど世界が、本当に僕らだけのものになればいいのにと思っていた。

 なぁ、


 突然呼びかけた声は、ひどく不安定だった。そのまま何処かに消えてしまうんじゃないかと思うほどに。
 廻り始めたメリーゴーラウンドの陽気な音楽。退屈そうな監視員の欠伸。包み込むように繋がれた右手。
 次の瞬間受け止めた君のキスは、乾いた風の匂いがした。

 
 白い真綿のような日差しが、僕らの足元に仄暗い影を落としてゆく。

 ごめん、

 
 そう呟いた君は、一ヵ月後。
 夢を叶えるために、海を越えた遥かな国へと旅立っていった。





 遠くの夜天が白みはじめている。
 漆黒から濃紺へとその色彩を移り変わらせてゆく天幕を背景に、廃墟のように浮かびあがる遊園地の影絵。正真正銘、誰もいない夢の国は今は安らかな眠りについているようだ。僕は無意識のうちに、眼前を隔てる鉄柵に手をかけていた。
 ああ、君が旅立つ前に一度、閉園した後の花やしきに忍び込もうとしたっけ。
 真夜中の遊園地なんて、退廃的な響きじゃないか。ここで一夜だけの、僕たちのユートピアをつくるんだ。
 そんな子供じみた目論みに、君を誘うことは出来なかった。
 ただずっと、しんと静まり返った暗闇のパノラマを仰ぐばかりで。
 越えられないこの境界線の向こうに、君が行ってしまうのをぼんやり眺めていた。

 あの夜も、今も、君はいない。
 それでも甦るのは、優しく繋いだ手のぬくもりと、乾いた口唇の感触。
 たったそれだけが理不尽に僕の思い出を攪乱する。確かな幻影だけを残してこの手をすり抜けていった君は、狡猾ずる いよ。
 僕は今も、この塀を越えられないでいるのに。

 鉄柵を掴んでいた手が不意に力を失った。それにあわせて僕の体も崩れ落ちる。もはや己のバランスさえ保てなくなった体を叱咤し、なけなしの力を振り絞って近くのベンチに倒れこんだ。仰向けになった拍子に、放射状に広がる銀色の雨が僕の顔に降り注ぐ。
 きぃん、と。微かに鳴り響く耳鳴りは幻のサイレン。この音はきっと、僕をあの空の彼方まで連れて行くのだろう。
 勢いの衰えた雨にかわって、蒼く浸されてゆく闇が、もうじき夜が明けることを物語っていた。
 追憶の底にわだかまっていた哀しみを、街の汚れを、洗い流していった雨が少しずつ速度を落としてゆく。
 浅草寺と仲見世に並んだ軒を、公園に集うホームレスの家を、銭湯の煙突を、物哀しい眠りに就く遊園地を濡らした雨が、風に運ばれて違う場所へと旅立ってゆく。
 ねえ、君。今の僕の傍には王子の銅像も君もいないけれど、あの時望んだ瞬間をちゃんと迎えられたと思うんだ。
 僕だけの真実を、幸福を、君は知る由もないだろうけど。
 ただ願わくば、死にぞこないの僕を束の間潤したこの水の恵みが、いつか君の元にも届くように。
 さよならも、愛してるも云わないでおこう。
 いつか君に降る雨が、限りなく優しいものであるために。
 





 ゆっくりと閉ざした瞳から、雨ではない熱い水滴が滴った。
 その隙間から洩れた眩しいほどの朝焼けは、僕が見た最期の希望。
 過ぎ行く夜の雨が、僕の口唇に静かな口付けを落として消えていった。
 













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