紅を基調にした室内には、ゆるやかな音楽が揺蕩っていた。
一階の広間の喧騒が、どこか夢のように聞こえる。むせかえるような香の薫り、蓄音機から流れる気だるげなノイズに包まれながら、瑞杏は天鷲絨を張った長椅子に身を委ねた。
呆れるほど金がかかった部屋だ。朱塗りの背景に華を散らした古めかしい戸棚、白磁に美しい藍で山水が描かれた壷、紫檀の卓子には精緻な彫り物が施され、掛け軸には墨で描かれた龍が鋭い眼光を放っている――――旧王朝の面影を色濃く残す客間には、古今東西の家具が何の違和感もなく共存していた。
「さて……なにやら込み入った話があるみたいだが、どうしたのかね?」
そう言って瑞杏の前に腰を下ろしたのは、この屋敷の主である孫だ。少しばかり肥満した中年男は、見ようによっては優しい小父さんに見えなくもない。だが今は、金を持て余す者特有の高慢で強欲な色が顔に張り付いていた。
「大丈夫。ここは君のようなわけありの客しか通さないんだ。気兼ねせず商売の話をしようじゃないか」
実際、部屋の中には孫と瑞杏しかいなかった。先刻まで彼女についてきた護衛の海嶺も部屋の外に閉め出されてしまっている。今頃は扉の向こうで、忠犬よろしく主の帰りを待っているに違いない。
男は切子細工の洋盃を持ち出し、葡萄酒を注いだ。赤いネイルの指先がそれを受け取る。
「――――いい葡萄酒ですのね、」
洋盃に軽く口をつけ、瑞杏が優雅に微笑んだ。
「だろう?これは最近仕入れたものでね。向こうでも、なかなか手に入らない銘柄だそうだ」
「父がよく申しておりますわ。貴殿の扱っている商品は、いいものが多いと、」
瑞杏の父は上海に拠点を置く一大企業の主であったが、同時に秦皇財閥の一翼を担う者―――すなわち財閥一族の血を引く人物でもあった。彼女の実家は事業母体の一つである高級百貨店のほかにも、一流の菜館や賓館を上海のいたるところで経営しており、商都を代表する企業としてその名を広く市井に知らしめている。また近年では医療面での電子工学技術開発に力を注いでおり、次世代への経済貢献を果たしていることも業界ではつとに有名だった。彼女の父が経営する会社は大陸随一と誉れ高い秦皇コンツェルンのほんの一部であるに過ぎなかったが、それでもこの商都における影響力は絶大なものである。ゆえに呉家の名前を見込んだ孫は、その娘である彼女をこうやってもてなしていると言うわけだった。
「それは光栄ですな、」
厭味にも思えるほど慇懃に孫が相槌を打つ。そこに含まれた毒に気づいているのだろうか、瑞杏は依然として蟲惑的だが図れない笑みを浮かべている。
「そこでと言っては何ですが、うちでも近々別のものも商ってみようと思いますの」
ふと、瑞杏の口調が変わった。少し色素の薄い黒瞳を孫に据えて、長い足を組む。旗袍のスリットが裂け、白い腿が露わになった。孫がごくりと生唾を飲み込む。知らぬ間に眼が釘付けになった。
「でも、慣れない手合いを相手にしますの。そこで貴殿のお力添えが、どうしても必要になりまして、」
「ほう……して、その相手というのは?」
「烏龍幇ですわ」
薄く開け放した連子窓から、冷たい夜風が舞い込んだ。金の刺繍を施した深紅のカアテンがはらりと靡く。その名前を耳にした孫は、信じられないといったように頭を振った。
烏龍幇と言えば、この魔都―――いや、大陸で最も勢力のある犯罪組織ではないか。麻薬密売や売春、臓器売買をはじめとする数々の裏事業をすべて統括し、上海におけるアンダーグラウンド産業での権力を掌握している暗黒集団。そんなやつらとの取引を目論むなんて、万が一世間に知られればとんでもない醜聞になりかねない。
だが、孫が驚いたのはそれだけではなかった。実はここ最近、彼も烏龍幇と手を組んで、無登録の拳銃や火薬などを斡旋し始めていたのだ。その需要は際限なく、莫大な利益を孫に齎す。だが同時に、一歩間違えれば自分の破滅をも導きかねない危険性も秘めていた。幇会との関係は、今のところ彼のトップシークレットである。
「それは物騒な話ですな、」
しかしその動揺の燐片など億尾にも出さず、孫が眉を顰めた。
「ええ…。ですが、彼らの力があってこそ、この上海の商業が成立していますもの。違法ですけれど、今や彼らの存在を抜きにして上海での事業は語れませんわ。ですから私達の家業も、そろそろ彼らとのパイプが欲しいと思っておりまして、」
女はまるで今日の予定でも話すような気安さで続ける。
「そんな折、父の知り合いである子会社経営の方が、それなら此方に聞けと仰いましたの」
瑞杏はそう言って、孫の傍系会社にあたる社長の名前を口にした。そこは孫が、幇会とのやり取りの隠れ蓑に使っていた会社だ。孫は焦りを覚えた。呉家と手を組み、この都市の裏家業に手を出すのは悪くない話だ。だが、この女は此方が色々とあくどいことをしているのを知っているのだろうか。孫の疑惑が膨張する一方で、女は艶やかな微笑を浮かべるばかりである。
「ふむ……確かに彼らの力は大きいですな、」
「それに、この屋敷も彼らに勧められて買い取ったと伺っておりますが?」
膨らみ続けた孫の疑惑は、その一言で一気に破裂した。その事実は、ごく一部の者にしか知られていないはずだ。俄かに孫の脳裏で、この連携で齎される利潤の大きさが目まぐるしく勘定された。それほどの情報を彼女が握っているということは、決して少なくない金が動いたに違いない。
導き出された答えから、彼女の父がそちら側の世界に本気で進出しようとしていることが窺われた。
そんな結論に至った彼は、瑞杏を―――呉家の商談を受け入れることにした。これで幇会から何か言われたとしても、さして問題はないだろう。いざと言う時のための切り札は、己の手の内にある。孫は白々しく咳払いをすると、ちらりと女を盗み見た。
「少し、目立たない倉庫が必要になってね。此処を買い取っておく事を勧められたよ」
「灯台下暗し……ですものね」
飲み込みの早い女だ。それともそれを見越して尋ねたのか?
「確かに、此方のお宅の自動安全装置は素晴らしいですわ。個人の邸宅とは思えないくらい。此処でしたら仮令騎士団であろうとも、武器を隠し遂せるだけの仕掛けがあるんでしょうね?」
「そういうところかな」
開き直った気分で男が尊大に頷いた。瑞杏の眼に、狡猾な輝きが灯る。紅のルージュが、意味ありげに歪んだ。同じ獲物を喰らう、共犯者の笑み。駆け引きをしようとする女の、どこか誘うような声がこの上なく艶めいて聞こえた。
「どのくらい仕入れましたの?彼らに与えるエサを、」
不意に、孫が瑞杏の傍に腰を下ろしてきた。スリットから覗く足に、芋虫のような指が伸びてくる。
「君がこのまま大人しくしてくれるなら、詳しく教えてあげてもいい」
そう言うやいなや、孫は瑞杏にのしかかってきた。男の手が、瑞杏の躰を這い回る。
瑞杏は顔を背けた。幽かに揺れる白い首筋が、男の前に曝け出される。
「彼らとも、こんな取引を?」
「まさか。大体が拳銃の横流しだよ。特に最近は、国産の銃の規制が厳しくなっているからね」
「そう……」
溜息にも似た女の呟きが、孫の耳をくすぐった。下卑た笑いを浮かべながら、彼女の口唇にむしゃぶりつこうとした時―――――。
かちり、という不吉な音が耳元で響いた。気付けば目の前に、黒いものが突きつけられている。
「手をお放しなさい、この好色オヤジ」
切りつけるような声に、男の動きが止まった。突きつけられたのが、懐に入っていた銃だと認識した時、男の股間を瑞杏の膝が突き上げた。
ぎゃっ、とうめいて孫の躰が離れる。それを合図に女が孫を突き飛ばした。情けなく倒れこんだ男を、馬乗りになって押さえ込むと、
「男に組み敷かれるのは趣味じゃないの、」
こんな状況でなければうっとりしたであろう、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「だ……誰かこの女を取り押さえろ!」
決死の形相で孫が叫ぶ。次の瞬間部屋の扉が開かれて、孫は安堵したが――――すぐに絶望へと叩き落されてしまった。
扉を開けたのは、瑞杏の護衛である海嶺だ。淡白な顔立ちは美形とは言いがたいが、それなりに整っている。だが如何せん表情に乏しかった。黒いスーツに身を包み、銃を構えた大男の足元には、見覚えのある孫の用心棒たちが何人も横たわっている。ぴくりとも動かない彼らを目の当たりにしたとき、孫の顔が恐怖で引き攣った。
「なっ………何なんだ、貴様らは?」
渇いた喉から搾り出されたのは、聞き取りにくい掠れ声だった。そんな彼に向かって瑞杏と海嶺は、無慈悲に無情に、黒い手帳を突きつける。
「孫福康。銃刀売買、及びに危険物不正密輸の容疑で逮捕します」
涼やかな声音で、瑞杏が正義の審判を下した。銃を突きつけたまま、孫から体を離してさらに続ける。
「先刻の会話も全て録音してあるし、今頃私の部下たちが、武器の倉庫を抑えているわ。観念するのね」
「――――――まさか、君が騎士団だったとはな、」
「欲に眼がくらんで自滅した男が、気安く呼ばないで頂きたいわ。言いなさい。烏龍幇が貴方に近付いたのは、塔に隠された宝を私たちに気付かれずに手に入れるためね?」
「何だ、知っているんじゃないか。――――今あの塔は、烏龍幇が見張っているよ。君の部下を始末するためにね、」
「何ですって?」
瑞杏が気色ばんだ。銃口を孫に据えたまま、すぐさまピアスに仕込んだ無線機に存取する……しかし、その耳が捉えたのは硝子板を引っ掻くような不快な雑音のみであった。
――――電波妨害?!
その可能性に思い当たるや否や、海嶺に向かって大きく振り返り、鋭い口調で告げた。
「シュウを呼んで。その辺の木に止まっている筈よ。早く麗紅に知らせないと…」
彼女が目を離した隙に、孫が素早く飛び起きた。瑞杏がそれに気付いた時には、卓子に乗っていた小型の紙刃子が、彼女に向かって投げつけられている。
「瑞杏様っ!」
反応が一拍遅れた瑞杏の腕を、刃子の切っ先が掠め去った。機会を得た孫はその躰からは想像も出来ない機敏さで、一目散に入り口へと直行する。
だが、海嶺の銃撃がそれを赦さなかった。二,三回と続けざまに引き金を引いて、男の間接、掌、肩―――を容赦なく的確に打ち抜く。それをもろに受けた孫の躰が大きく揺らぎ、力なく絨毯の上に倒れこんだ。
「瑞杏様…御怪我はっ……」
細やかな腕から流れる紅い鮮血。それを目の当たりにしたとき、この夜初めて海嶺の顔に表情らしいものが浮かんだ。其処に彩られたものは、驚愕。
「ああ、これくらい大したことないわ。それより早く―――」
言いかけた瑞杏が、ふと口を噤んだ。海嶺が無言でテーブルクロスを引き裂き、瑞杏の傷口を止血する。その面持ちは、怖いくらい真剣だ。
「申し訳御座いません……私がついていながら……こんな怪我を負わせてしまうなど」
沈鬱とした響きは、聞く者まで切なくさせた。そのまま跪き、そうせずにいられないように頭を垂れる。
どうして守りきれなかったのか、悔いる想いだけが募る。自分が決めた、唯一人の主。この身にかえても、守り抜くと誓ったのに。仮令それが、この世界における、定められた運命の一つだったとしても……。
「――――そうね。後できっちり叱ってやるから、覚悟なさい。けれど今は、優先させるべきことをやらなくちゃ、」
言っていることは厳しかったが、その口調は酷く暖かだった。瑞杏は忠実なる僕の肩に手を添えて、潤沢な目眦をきりりと持ち上げた。
